20世紀の歴史と文学(1935年)

1935年には、内閣総理大臣が斎藤実から岡田啓介に代わっていた。

斎藤実は、おとといの記事でも最後に触れたが、翌1936年に暗殺されることになる。このときは、まだ生きていた。

岡田啓介もまた、海軍の出身であり、田中義一内閣と斎藤実内閣では、海軍大臣を務めた。

この岡田も、実は、斎藤実とともに命を狙われることになるのだが、かろうじて助かった。

そして、岡田が戦後まで生き延びたことで、今の日本があると言っても過言ではないくらい、非常に重要な存在であった。

1935年は、昭和10年にあたるのだが、このとき国会で「天皇機関説事件」が起こった。

天皇機関説というのを聞いたことがある人もいると思うが、天皇機関説と対比的に語られたのが天皇主権説である。

そもそも天皇機関説は、1912年(=大正元年)に東大教授の美濃部達吉(みのべ・たつきち)によって「憲法講話」で論じられたものである。

このとき、美濃部達吉と同じ憲法学者だった上杉愼吉(うえすぎ・しんきち)は、「天皇主権説」(=国家の主権は天皇にあるとする説)を唱えたのだが、結果的に、美濃部の天皇機関説(=統治権の主体は国家にあり、天皇はその最高機関とする)が、大正天皇や昭和天皇にも受け入れられていた。

ところが、1935年になって、当時の貴族院で、陸軍出身の菊池武夫が、美濃部達吉のいう天皇機関説は不敬罪ではないかと非難したことで、再び注目されることになった。

このとき、岡田啓介は、内閣総理大臣としての見解を問われたのだが、彼の答弁は真っ当であり、したたかであった。

国体をどう考えるかと問われても、「(大日本帝国)憲法第1条に書かれているとおり」だと答え、軍部の攻撃(=口撃)をうまくかわしていた。

改めて、大日本帝国憲法第1条を確認すると、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。

これを、軍部が都合の良いように解釈して、「内閣が軍事に関わるな、統帥権干犯問題だ」というようなことを主張していたわけである。

続きは来週である。

岡田啓介が今後、東條英機とも関わってくるので、彼の名前をしっかりと覚えていただければ幸いである。

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