20世紀の歴史と文学(1954年)
今から70年前の1954年3月1日、マーシャル諸島付近でアメリカが水爆実験を行なったのだが、その威力の見積もりを誤ったために、当初は危険水域外だったはずの海域で操業していた第五福竜丸(=マグロの遠洋漁船)が被爆した。
東日本大震災における福島原発事故の放射線被爆よりもはるかにひどい「死の灰」を、第五福竜丸の乗組員たち23名は、4時間ほど浴び続けることになった。
この影響で、第五福竜丸の無線長だった久保山さんが、半年後の9月に40才で亡くなった。
漁船なので、「死の灰」を浴びるのを避けようがなく、これは第五福竜丸だけでなく、周囲で操業していた約1000艘の漁船も被害に遭った。
当然のことながら、捕獲した魚はすべて廃棄処分となり、東京の築地市場の地中には、大量の魚が埋められた。
アメリカのアイゼンハワー大統領宛てには抗議の署名が世界中から集まったと言われており、イギリスの新聞「ロンドン・タイムズ」も、日本の漁師が水爆で亡くなったことを報じた。
久保山さんは、被爆で死ぬのは自分で最後にしてほしい旨の遺言を残して亡くなったのだが、アメリカは、久保山さんの死を放射線被爆によるものとは認めなかった。
しかし、この事件が反米運動につながることを恐れたアメリカは、第五福竜丸の乗組員1人あたり200万円の見舞金を出した。
他の漁船も被爆しているのだが、第五福竜丸だけが特別扱いされたために、周りの漁師たちから嫉まれ、つらい思いをした人もいた。
広島の原爆の1000倍の破壊力をもつとされた水爆は、実際に使用されると東京23区が一瞬にして壊滅すると言われた。
第五福竜丸は、自力で帰還した後に除染され、その後は改造されて、東京水産大学の練習船として一時期は使われていた。
ただ、1960年代後半に、東京都江東区の夢の島に係留されて事実上の廃船となっていたのが判明し、保存運動が起こった。
そして、今は、江東区の第五福竜丸展示館に、船体が展示されている。
行ったことがない人は、東京に立ち寄ったときは、ぜひこの目で見てきたほうが良いだろう。
マーシャル諸島では、今年の3月1日に、70周年の式典が行われた。
当時、アメリカはマーシャル諸島を統治しており、現地の住民を追い出して1946年から67回も核実験を行なっていた。
当然、放射線物質で土壌や周辺海域は汚染されたわけであり、のちにアメリカは、水爆の威力で形成されたクレーターの中に汚染土壌などを廃棄して、上からコンクリートを流し込み埋めたのである。
その場所はルニット島にあったことから、「ルニット・ドーム」と呼ばれているが、なんと50メートルプールの35杯分に匹敵する汚染物質が埋められたと言われている。
しかも、近年の異常気象による海水面上昇によって、この「ルニット・ドーム」が浸食されて汚染物質が流出する危険性が指摘されている。
第五福竜丸事件が起こったときは、東京の築地では、南太平洋の魚がまったく売れなくなった。
今、私たちはなんの疑いもなく刺し身などを食べているが、どこで取れた魚なのかも分からずに食べているとしたら、少しは危機感を持ったほうが良いだろう。
都合の悪いニュースは、報道されないこともある。
信じたくないかもしれないが、国家権力の恐ろしさは、いつの時代も私たちの知らないところで絶えず身近な存在としてあることを自覚したほうが良いだろう。
安保闘争が起こった理由が少しは分かってきただろうか。