現代版・徒然草【91】(第90段・男の事情)
ついこの間まで話題になっていたジャニーズの件で衝撃を受けた人も多いだろう。
昔は、性の問題に関してはタブーだったのが、SNSの普及で誰かが声を上げるとあっという間に世の中に広まる時代になった。
性被害と関係あるかどうかは定かではないが、同性愛について、鎌倉時代にもドキッとする事件(?)があったようだ。
では、原文を読んでみよう。
①大納言法印(ほういん)の召し使ひし乙鶴丸(おとづるまる)、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがり罷りて候ふ」と言ふ。
②「そのやすら殿は、男か法師か」とまた問はれて、袖掻き合せて、「いかゞ候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。
③などか、頭ばかりの見えざりけん。
以上である。
非常に短い文章なのだが、兼好法師も深く突っ込んで書いていないのが興味深い。
①の文にあるように、大納言法印という僧侶では高位の僧だった人が、稚児の「乙鶴丸」を養っていたわけだが、その乙鶴丸が、ある時から「やすら殿」という人のところへ通うようになった。
法印が「どこへ行っていた?」と尋ねると、正直に「やすら殿のところへ行っていた」と答えたわけである。
ところが、②の文では、「そのやすら殿は、在俗の男か、出家した法師か?」と聞いたら、急に袖をかきあわせて(=要はモジモジしだしたのだろう)、「さあ、どうだか。頭は見ていません。」と答えた。
③の文で、兼好法師は、「なぜ頭だけが見えなかったのだろうか。」と問いかける形で、締めくくっている。
要は、読者の想像に任せることにしたのだろう。
相手と対面していて、頭が見えないとなると、何か被りものをしていたと考えられる。
ただ、相手が法師かそうでないかは、頻繁に通っていたなら分かることだろう。
しかし、法印もおかしな質問をするものである。
法師か在俗の男かと聞くことで、法師だったら嫉妬するつもりだったのだろうか。
在俗の男だったら、不問にしたのだろうか。
いかがわしいことがあったという前提で、この段の文章を読むと、ちょっと混乱してしまう。
そうでなかったとしても、乙鶴丸の返答は、何か後ろめたいことがあるような感じを受ける。
自分が親だったとして、子どものこういう返答にどう対応すればよいのか、なんとも悩ましい時代になったものである。
読者として、気をもむとすれば、乙鶴丸の心情やいかに?といったところだろう。