法の下に生きる人間〈第48日〉
中東で今まさに起こっている紛争に、アメリカが関わらざるを得なくなっている状況を、100年前に誰が予測できただろうか。
世界第二位の原油埋蔵量と原油生産量を誇るサウジアラビアがアメリカ寄りなのはよく知られているが、そのサウジアラビアがアメリカと安全保障に関する協定を結んだのは、日米安保条約よりも20年ほど遅い1974年のことだった。
このとき、サウジアラビアは、アメリカに対してドル建て決済で原油の安定的な供給を行うことを、自国の安全保障と引き換えに約束したのである。
アメリカの強さは、皮肉にも日本への原爆投下で証明された。
第二次世界大戦が終わって、国際社会が平和を希求する方向へ足並みをそろえたとしても、いつ自国が侵略されるか分からない。
しかし、核を持っている大国と戦争になれば、負けるに決まっている。だからこそ、大国と手を結んだほうが得策だという、まさに「虎の威を借る狐」的な考え方が広がっていったといえよう。
そして、大国は大国で、安全保障と引き換えに自国が潤うような貿易政策を要求する。
中国の「一帯一路」やアフリカ政策もそうである。
日本において、1960年の安保闘争が起こった背景には、もう少し複雑な事情がある。
第二次世界大戦中の学校教育を振り返ってみよう。
国民学校で学んだ児童生徒は、ほとんど戦闘員として駆り出されたわけだから、今のように高校や大学に通いながら青春を謳歌することなどあり得なかったのである。
それが、戦後は学校教育法の施行とともに、大学進学を目指す生徒が増えていった。
1948年、全学連(=全日本学生自治会総連合)が結成され、1955年まで一時期、左翼団体や共産党の傘下で大きな影響力を持っていた。
古い体質からの脱却が強く求められるときは、いつの時代も革命が起こる。
1949年の中華人民共和国の成立もそうである。毛沢東の名を知らない人はいないだろう。
毛沢東による中華人民共和国(=今の中国)の建国直後に朝鮮戦争が起こったが、朝鮮戦争で北朝鮮を後方支援したのは、毛沢東なのである。
アメリカは韓国を後方支援しながら、最終的に休戦協定に持ち込んだ。
北朝鮮のバックに中国がいて、韓国のバックにアメリカがいることで、両国の安全保障は均衡がとれているわけである。
ただ、誤解のないように補足すると、朝鮮戦争の勃発は、北朝鮮の軍隊が南下して侵攻してきたことがきっかけであり、毛沢東による開戦ではない。
日本は、縄文時代の頃、国内の王を名乗る人物が、中国の国王に支配者としてのお墨付きをもらっていた。
いつの時代も、安全保障は付き物なのである。