20世紀の歴史と文学(1942年)

戦争の話ばかりで疲れた人もいるだろう。

今日は、南太平洋の国を取り上げつつ、ある一人の作家と文学作品に触れよう。

昨日の記事の最後でも触れたが、マレーシア、シンガポール、インドネシアの世界地図上の位置がだいたいイメージできる人は、そこから東側に目を向けてみよう。

フィリピンやパプアニューギニアなどのいくつかの島国の中に、パラオ共和国をはじめとする南洋群島が見える。

実は、このパラオを含む南洋群島は、第一次世界大戦でドイツが敗れるまでは、ドイツの植民地だった。

ドイツが敗れたことで、ヴェルサイユ条約が結ばれたことは本シリーズですでに解説しているが、このとき、日本はパラオを含む南洋群島の委任統治を国際連盟によって承認されていた。

日本が第二次世界大戦で降伏したあとは、アメリカが統治することになったが、実はこの統治は1994年まで続き、パラオが独立したのはたった30年前である。

しかし、日本が第一次世界大戦後にドイツに代わって統治していた時代は、多くの日本人が移り住み、現地の人たちも日本語教育を受けていたことから、パラオは親日国家で知られている。

今でも、パラオに住む年配の方は、日本語が上手だそうである。

さて、1942年、このパラオから1年間の赴任を終えて日本に戻ってきた一人の男がいた。

知る人ぞ知る中島敦(なかじま・あつし)である。

中島敦は、東京生まれの人だが、横浜高等女学校の教師として1933年から国語と英語を教えていた。

教師時代は、横浜のアパートに住んでいたが、持病のぜんそくに苦しみながら教鞭をとっていた。

1939年頃からぜんそくの症状が悪化し、教職を続けることが困難になり休職に至った彼は、1941年に退職することになる。

だが、知人の斡旋もあって、当時、日本が委任統治していたパラオにある南洋庁で、教科書編集書記官の職に就くことになった。

横浜港からはるばる船でパラオまで赴任した彼にとって、南太平洋での生活は、ぜんそくが少しは落ち着くかもという期待もあった。

ところが、熱帯特有の雨の多い気候は、よけいに彼の症状を悪化させ、たまらず彼は1年で帰国願を出したのである。

折しも、目と鼻の先にある東南アジアでは、真珠湾攻撃と同時に日本軍が次々と欧米の植民地に侵攻していたところだった。

戦禍から離れられたことは彼にとっては良かったかもしれないが、残念なことに、彼は、1942年に33才の若さで亡くなった。

しかし、彼が、横浜高等女学校で教鞭をとりながら取材しつつ書いていた文章は、パラオからの帰国前に、『山月記』(さんげつき)として雑誌に掲載され、注目を浴びることになる。

『山月記』は、高校の国語の教科書にも掲載されているので、今の高校生や20代の人たちの多くは知っているだろう。

読んだことのない人は、青空文庫でも読めるので、ぜひ読んでみるとよい。

中国の古典を題材にしたものだが、私は初めて読んだとき、なんだか胸が熱くなって感動した。

中島敦がもう少し長生きしていたら、もっと多くの名作が世に出たのではないかと思うと残念である。


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