茶道は祈りかもしれない

こんにちは。
寒い毎日、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

私は今年、珍しく年始に抱負を考えました。(しっかり目標にむかって日々を過ごすような立派な人間ではないのです…)
それで、月並みな「挑戦」というのを、今年の自分の抱負として、こっそり決めました。

どうして「挑戦」を抱負にしたかと言うと、元々とても面倒くさがりで、自分から思い立って挑戦するということを、学校などで強いられない限りあまりしてこなかったかもなぁ、と半生を振り返って思ったからです。

人に自分を創ってもらう期間を経て、自分で自分を創るような年齢になって来た時、このままだと、成長なくかなりつまらない大人になっちゃうぞ、という危機感からこんな大層な抱負を掲げてみました。

(それでも、自分から挑戦する!と張り切らずに、人に流されたり影響を受けて、なんとなく始めたものの中で得たものもまた、とても大切ですよね。実際私は、いつも流され流され、そんな風に生きてきたなぁと思います。)

前置きが長くなりましたが、そんな挑戦の年の年始から、早速ひとつ、新しく始めたことがあります。
それは茶道です。
始めた理由はいろいろとあったのですが、それはまたいつか書くことにして、まだ数回のレッスンの中で、少し思ったことを書き綴ってみたいと思います。

私は全くの初心者として、この度茶道を習い始めたのですが、思ったよりすごく敷居が低くてホッとしました。
お稽古の雰囲気も、落ち着いていながら、決して厳しくはなく、温かい感じ。

一回一時間のレッスンで、作法を教えてもらうこともちろんなのですが、テキストを使って茶道の基本用語、成り立ち、小噺(?)なんかもお話してもらえます。
意外にもそういう座学的なものが、例えば現代でも言葉や文化として根づいて生きていると発見することも多々あり、とても奥深く興味深いです。

それで、前回のレッスンのあと、ぼーっと考えを巡らせていたら、思ったことがあります。

それは、「茶道って祈りかもしれない」ということ。

まだたった数回のレッスンですが、前回習ったことを、まだおぼつかないながらも、頭ではなく体が憶えているということがあります。

始める前、茶道は作法がきっちり決まっているものだから、それを窮屈に感じて疲れたりしないのかな〜という不安が少しありました。
でも、全然違った。
むしろ、きっちり決まった作法を確実に、心を込めながらも淡々とこなす、と言う部分には祈りに近い精神性があるかも、と感じるのです。

それが、確実な達成感や安心感を生み、癒しとなって、現代でも受け入れられている面もあるのかもしれない、と考えました。

あくまで、茶道初心者がなんとなく思ったことなので、この先のお稽古を通して、その考え方も変わっていくのかもしれません。変わっていくほうが自然で、面白そうと思います。

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