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VOL.26(2019最終記事)/厳しくともリアルを生きよう。

こんにちは。すごく大切なことをお伝えします。
どうかみんな、スピリチュアルに閉じこもってしまわないで。
厳しくともリアルを生きよう。

スピリチュアルというカテゴリに入るこのnoteで、こんなことを言うのはおかしく思うひともいるかもしれないですが、今この”スピリ”が扱いを間違えるととても危険だと強く感じていて、今日あえてそう強くお伝えします。
わたしがもともとこのnoteを始めたのは「形なきもの」に焦点をあてることで、少しでも皆の日々、暮らし、が、豊かなものになればいいと思ったからです。何度か引用していますがユーミンの「やさしさに包まれたなら」ではないけれど「やさしさに包まれたなら 目に映るすべてのことはメッセージ」ささやかな植物の変化にもすべて意味を見出して生きていける。

これは「森羅万象の中に神を感じる」という日本の古神道の考えとも通じるものがあるしと思いました。けれどそれら全てはこの現実世界における暮らしの「エッセンス(=構成要素の1つ)」を超えるものではありません。
当然それが暮らしのすべてではありません。

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ーーー以下2022年7月加筆ーーー

この頃わたしの人生には大異変がありました。
まず1月にアルバイトをしていた銀座のお店を辞め、そのママがどれだけ言葉と裏腹にわたしを虐待していたか(すみません端的な言葉を)を思い知り、強いPTSDに苦しみました。その頃、20年来の親友と、同じく15年来の親友と、同時期に喧嘩をしました。中でも15年来の親友のOMIとは何年も6畳一間の家に一緒に住んでいたにも関わらず喧嘩などしたことがない、しかもこちらが怒るという形での衝突は一度もなかったので少なからずわたしは動揺していました。

それでこの二人への「怒り」をどこかへ吐き出さなければ死んでしまう、と思い、わたしはこの記事を書きました。内容は今も修正する必要はなく(OMIやもう一人の親友をなじっていると今の自分が感じる部分は消しました)
スピリチュアルに偏らず日々の暮らしを生きようというものです。

2022年、かなり進化したわたしが加筆するとしながら何故なら人間は「肉体」という三次元の乗り物に乗って、この地球という次元を生きているからです。
精神性やスピリット、魂や使命、のようなものを追い求め、この2019年の5月が最もそうでしたが、魂と肉体が乖離しそうな瞬間を幾度となくわたしは体験しました。それはすなわち、平たい言い方をすると「肉体の死」です。
自分の足元から影が、離れて、空へ、浮かんで行く世界線です。

わたしたちは生きながら、魂の神秘や役割を求め、その中でスピリチュアルにぐぐぐと入ってゆく層がある一定以上いるけれど、じゃあなぜわたしたちは肉体のある人生を選んだのかな? それは時に炭酸強めのコーラを飲んでむせながらポテトフライを食べてしゃっくりをするためであり、サウナ&水風呂を楽しむためであり、
セックスをしてイくためであり、しこたま眠るためであります。

唐十郎の「少女仮面」という戯曲の出だしに「彷徨う霊魂が求めてやまないものはなんだとおもう・・・? 肉体だよ!!!」という感じのセリフがありますがまさにそう思う。だからラム子改2022年のモカティーナ夫人が奥の間で言えることはこれ。どうかその肉体を謳歌して!せっかく肉体を持っているのにそれを謳歌しないのは次元上昇でもなく彷徨う魂そのものだよ!うっかりしていると乗り物だけ奴らに奪われてしまう!そんな感じ。笑

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ともあれ何が言いたかったかと言うと、わたしはその苛立ちの全てを3年前この記事にぶつけてしまった。そしてそれを、彼女はどこかで読んだのではないかなということです。

そのころはキレていたので「別に読んでもらっても構わない!」って感じに思っていたけど、今は反省しています。だってそれってなんだか公開処刑みたいじゃないか。OMIとは以来連絡が取れてなくて、もはや住所以外のデジタルな連絡先もわかりません。でも新刊が出たら、それを持って謝ろうと思ってる。
ごめんね。幼稚だった。いっぱいいっぱいだった。でもそれがあの時のわたしだった。反省してるけど悔いることはできない、って。

ーーー以上2022加筆ーーー

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基本的に宗教や祈りが栄えるのは不安定な時代です。
つまり今ちょっと世界や日本が不安定なのだと思います。
あまり景気のいい話って周りで聞かないし、実はわたしも、ちょこっとこのnoteでも触れていた昼間の仕事では給料がもらえませんでした。
この案件は作家のFBの記事で触れているので割愛しますが、わたしの身にだってびっくりするような、衝撃が走るような事件が起きています。(給料貰えないなんて長く生きてきたけど初めて!笑)

アラビアにいたとき、アブダビのキラキラの黄金のモスクにも行きましたが、労働者の町にそっと紛れて、パキスタンやインドからの出稼ぎのモスリムたちの祈りにも触れてきました。ドバイは豊かな町ですが、貧富の差が激しく、出稼ぎの外国人は、一つのマンションに6人とか9人とかで住んで、まるひと月働いて月給2万円とかの生活をしています。それでももっと貧しい母国にお金を送ります。そんな彼らにとって「祈り」こそ生活の支えなのだと、わたしはまざまざと思い知りました。

仏教が生まれた由来もそうです。生きていても日々が地獄。生まれた意味も生きている意味も見出せない。身分制度[カースト]に支配され、生まれた時には一生が決まっている。そんな中でブッダは「極楽浄土」という考えを与えました。つまり今、辛くとも耐え忍び「徳」を積めば、死んだとき極楽浄土へ行けるというもの。仏教では現世は修行、死後の世界の方が重要視されています。でもこれらは全部「今を生きるため」「現実を生きる」ための心の支えであり、祈りです。

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言ってしまえば、極楽浄土を人は生きているうちに確認できません。
キリストだってアラーだって、アマテラスだって、目視できませんし、存在を証明できません。
でも、そんな不確かな世界の中で唯一存在を証明できるものがあります。
それは「あなた」です。あなた自身がそこで生きていること。
それは紛れもなくれっきとした事実です。だからこそ「自分はどう考えるか」「自分はどう選ぶか」「それは本当にじぶんの考えなのか」を問い続けることが大事です。辛いことが起きたら逃げたくなるし人のせいにしたくなるし、目に映る全てのことを変な風にこじつけて考えてしまいます。

確かにユーミンの歌でも「目に映るすべてのことはメッセージ」と言っています。わたしもずっとそのようにお伝えしてきました。でも、ユーミンの歌詞には手前に”やさしさに包まれたなら”とついています。
あなたがやさしさに包まれた時、すべてのことにメッセージがみえる。
わたし流に表現するならすきとおるその瞳で
「クリアに世界を見れたなら」というところでしょうか。

まずそこが大切です。厳しくともリアルを生きよう。
そしてじぶん自身の目を、いつも曇りなく、すきとおる、クリアな状態に保つことを心がけましょう。

形なきものは存在します。

でもそれを感じる時、見ることができるときは、
スピリチュアルの中にいる時ではなくって、
日々の中にいる時なのです。
今、時代は厳しく”自然に” 日々を生きるということは難しいかもしれない。
だからもがいていいと思います。でも大事なことはスピリの中に閉じこもらないこと。今この時を、たしかに生きて欲しい。

これまで「形なきもの」の視点から綴ってきましたが、今の世の中の流れの中でこれは逆効果だと考えています。アプローチを変えたほうがいいなあと思っているのでしばらく小休止。
最後に歌を贈ります。
わたしにとって芸術は自己救済。
書くことが困難ならば歌を歌う。
よく見せるためのものではないので、無加工で載せます。
曲はケイシーマスグレイヴズの「rainbow」
今年のgrammyを席巻した楽曲です。

上がっていく水面から顔を出して息をしようともがいているすべての人に。
愛をこめて贈ります。

同じ曲を2021年このような映像作品に仕上げました。
息をしようともがいていた2019年のわたし、そこから懸命に頑張ったこの3年のわたしに捧ぐ讃歌です。

みんなも比較してみてください。それでも2019年版がわたしの全てのスタートです。

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ラララ・ラム(あるいはマダム・ララ)
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