la la la 76. 「アマツノリトのフトノリト」(By「大祓詞」補足)【祓い清め給えシリーズ⑦】
こんにちは。昨日「大祓詞」を紹介しました。それで、この「東の魔女の暮らし」は、不器用さんに贈るものであり、日々の暮らしをほんの少しでも心地よく、明るく、Happyに過ごすためのコツとか、知恵(アルス)を伝授するマガジンであり、神道を掘り下げるためのものではないので、昨日はこの「アマツノリトのフトノリト」のことには触れなかったのですが、
もし昨日の記事から「大祓詞」に興味を持っていろいろ調べてみたりした不器用さんが、この「諸説ありすぎ」の”フトノリト”の部分で
「ワァーン、どれが本当かわからない!」
ってなり、不器用さんはだいたい生真面目さんですから「よくわからないものを唱えられない!」ってなってしまうのではないかしら!? と思い、今日補足記事を書くことにしました。
昨日わたしは「大祓詞(おおはらえことば)」は前半と後半に分かれているとお伝えしましたね。前半は世界(国)の成り立ちや、それによって豊かさと同時に生まれてしまった罪や穢れなどが綴られ、それを見かねた天津神(あまつかみ)がそれらを祓い清める祝詞(のりと)を高らかに唱えなさい、とおっしゃいました、というところで終わります。最後の詞は「天祝詞の太祝詞(アマツノリトノフトノリゴト)を宣(ノ)れ」です。
そこに一拍挟む感じで、後半と呼ばれる箇所が「此(かく)宣(の)らば〜」と始まります。内容は、「このようにフトノリト(太祝詞)を唱えたならば、天津神(天上の神)たちは高天原の宮殿の岩戸を押し開いて、天にかかる幾重にも重なり合った雲を、その御威勢で押し分け掻き分けて、その詞をお聞きくださるでしょう......」
となり、そこから昨日わたしが綴った瀬織津姫含む、祓戸四神がどのようにしてその穢れを身削いでくださるか、その具合的な過程が綴られていきます。そしてたくさんの方々が「諸説アリ」として揉めているというか、スッキリハッキリ、釈然としないで議論が重ねられているのが、この”アマツノリトノフトノリト(天津祝詞の太祝詞)”の部分なのです。
つまり、疑問を感じていらっしゃる方々の意見としては、
「天津祝詞の太祝詞を宣れ」と書き、それに呼応する形で、
「此く宣らば...(このように宣ったならば)」と続くのに、肝心の「天津祝詞の太祝詞」が記されていないじゃないか、というものです。
この空白の「一拍」。ここに、秘めたる詞「秘詞(ひめことば)」が存在しており、それを唱えないと「大祓詞」自体に効力はない。
そんなような解釈もちらほら見受けられました。
もし不器用さんがそれらの記事を見つけてしまったら「え、こんなに長い文章を唱えるのに、そこが抜け落ちていたら無意味なのかな」ってなって、この「大祓詞」全体に対しての神秘性を失ってしまうだろうとわたしは思ったのです。
なので今日わたしは、ラム子視点というより、小説家のわたし、いちおう言葉の博士と言える、笑、詞使いのわたしとして「言葉というものはそういうものではない」ことをお伝えしたいのです。結論から言うとその空白がただの空白になってしまっても、なんら問題はないということです。
ここらからはスピリチュアルというよりは極めて「国語寄り」笑 の話になるので「なんだ大丈夫なんだね、わかりましたあ〜!」という不器用さんはここで離脱してもらっても大丈夫です。
(以下、長くなりさらにマニアックになっていきますので、面倒な方は本当にスルーで! 笑)
まず、間に挟む「アマツノリトのフトノリト」【存在バージョン】ですが「太祝詞」と言うくらいだから重要かつ強い詞があったと仮定できます。
A【秘詞としての太祝詞が存在するバージョン】
その太祝詞【秘詞】は「アマテラスホオミカミ、アマテラスホオミカミ」と天照大御神を2回唱えるというものだ、という説がまずあります。
次に、ひふみ祝詞など、割と長めの祝詞(のりと)を挟むものや他にも諸説あります。わたしは”ラララエッティラ”と言うタロットのマガジンもこの「ラララ世界」でやっており、そこでも書いたのですが、儀式とか手順とか占いとか呪文は最初の「設定」が肝心なんです。やり方は人と違っていたり、多少間違っていたとしても自分が設定しその設定を8888パーセント信じて、そこに魂を乗せて行う、まずこれがとても大切なので、とにかく諸説の間でウロウロしてしまわないこと。ここ大切。
それを強くおすすめします。
また、この太祝詞ですが、わたし個人の見解は「”太”祝詞」というくらいだから、もし仮に呪文であったらそない長くないだろうというのが見解です。笑。「大祓詞」全文自体が「太祝詞」である解釈の場合は、他の祝詞に比べて「太い」という意味で納得できるのですが、長い祝詞の中にさらに秘密の祝詞がある場合って「テクマクマヤコンテクマクマヤコン♪」くらいの短さだと思うのですね。(テクマクマヤコンでもいいかもしれない!時空を超える魔法だから 笑)
次に”アマテラスオホミカミ”を唱える場合ですが、これは強い詞だし、神道の原点でもあるものですから「ビックバンビックバン」と唱えているのと同じこと、世界の発生に紐づく詞としてとても効果的だし唱えやすいので、これもおすすめします。ただわたし個人は天照大御神に対する謎解きの途中で、アマテラスは男神か女神か、もしかしたらそのどちらもを併せ持つ陰陽統合としての神の姿か、その場合瀬織津姫はどうなる? などと疑問の最中で、アマテラスの存在の輪郭がわたしの中でハッキリしていないので、わたし自身は唱えるのを控えようと思っています。(確信できないことを無理に唱えるのは危険です。意味がわからなくても確信していたら良いのです、でも逆に意味はわかっているけどあまり信じられないものを唱えたりするのが一番危険)
そしてここから「スーパー国語」になっていくのですが、笑 主流な説として存在している「そもそもこの”大祓詞”じたいが”天津祝詞の太祝詞”であり空白に秘密の詞は存在しない」という考え、わたしは基本的にこれでいいと思っています。
B.【空白に秘詞は存在しないバージョン】
義務教育を終えた人はきっと国語の授業を受けたことがありますよね、そこで長文読解というのがあって、テストでよく「この言葉は何にかかっていますか?」「この言葉は何を指しますか?」という問題が出ました。
この「大祓詞」を国語的に分解して行った場合に、間に「太祝詞(フトノリト)」が入ると主張している人たちは「宣れ」と言って、その後「かくのらば(このように宣のれば)」と答えているのにその「かく」つまり(このように〜)の言葉がかかる「祝詞=太祝詞」が存在していない、という理屈で話しています。
けれど掛言葉というのは複雑で、長文の場合、全体の構成を見つめて、実は真意(神意)としてはどこにかかっているのか? を見つけて行かなくてならないのです。わたしは全文をこれ全体が太祝詞だと言う解釈で見つめてみたのですが、その場合こういう物語構成になっているかなと考えました。
わたしの個人的な解釈では、実に本当の「太祝詞」部分は、全体というより祓戸四神が登場するくだりから最後あたりまでと考えているのですが、その場合こんな感じの構成です。
<起> ”天津祝詞の太祝詞”っていうのはこういう経緯で生まれたんですよ〜。うんちらかんちゃら(経緯)・・・それで、天津神はいいました。これこれこういう風にちゃんと儀式の準備をしてから「天津祝詞の太祝詞を唱えなさい」
<承> では、このように(=これから)”天津祝詞の太祝詞”を唱えたならば、神様(天津神)は雲をかき分けて我らの声を聞いてくださるでしょう。そしたら神様はかれこれこういう感じで「残る罪はあらじ」と祓え清め給うことを(聞こしめさん=約束してくださるでしょう?)
<転・結>
というわけで(以下”太祝詞”)※「」または『』内部分。
「『祓い清められた罪は瀬織津姫が川から海に流してくれて、次に海に住んでいる神様がそれをガブガブ飲んでくださって、次にそれを根の国黄泉の国(霊界)の門番の神様が吹き飛ばしてその中に入れてしまうでしょう、そうしたらば根の国黄泉の国に住む神様がそれをどこともなしに運んで消滅してくださるでしょう』そんな風に消滅してしまえば、残る罪はもうすっかりないのだと(いう風に)祓い清め給うことを(祓い清めさせていただくことを)天津神、国つ神、八百万様たちともに聞こし召せ(お聞きください)」と申し上げます!
国語的に引っかかるのは、誰かからの伝聞を語るようにして始まっているこの「大祓詞」が途中から、唱えている本人の物語となって終わっているところなんです。前半は「宣れ!」と神様が言ってますが、最後は「もうす!」とおそらく人間が言っている。2人称と3人称が混在しているし、宣れ、に対し、もうす、で終わっているという事はやはりもうす、の直前に太祝詞があると考えるのが自然ではなないかと思うのです。
だからやっぱりわたしは、この<承>の部分から主役は、唱えている本人に移っていると、文法的にというよりは唱えながら感覚的に思っていて(この起承転結はわたしが勝手に区分けしました)、つまり「かれこれこう神はおっしゃいました」「というわけで今から天津祝詞の太祝詞を唱えたら最終的に罪という罪はあらじと聞こしめせ」そして「太祝詞」とわたしの中ではこの物語(大祓詞)は2つではなく、大きく3つに分かれる。
なので「かく宣れば」の前に一拍あくのは当然であり、空白に秘密の詞が入らないのならば、つまり秘詞が存在しないのならば一拍あくはずがないという解釈は間違っていると思います。秘詞が存在しようとなかろうと、ここには絶対一拍が「国語的には」必要だと考えています。
次に、ここからはもう超個人的な「ラララ解釈」なのですが、わたしは全体を3つにわけたあと<承>の部分の最後の1行に(聞こしめさん=約束してくださるでしょう?)を追加しました。勝手に追加して解釈して申し訳ないのですけど、そうしないとその前の「祓い清め給う事を」が掛かる詞が見つからないのです。
そしてもし区切り方を変えて「(神が)祓い清め給う事(もの)を瀬織津姫が海に流しますよ」という意味であったら、さらにその前の「残る罪はあらじと」(聞こしめさん、または、聞こしめせ)と入ると思うのですが、やはりこの場合「祓い清め給う事」の「事」は祓い清める行為の事を指しているのであって、瀬織津姫が大海原に流すもの(=罪や穢れ)の事ではないと思っています。
<ラララ解釈>
大津辺に居る大船を 舳解(へとき)放はなち 艫解(ともとき)放はなちて 大海原に押し放つ事ことの如く 彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本を 焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以(も)ちて 打掃はらふ事の如く 遺る罪は在あらじと 祓ひ給ひ清め給たまふ事ことを
ーー<聞こしめせ> そして以下太祝詞ーーーーー
高山の末すゑ 短山の末すゑより 佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ 速川の瀬に坐ます瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神
大海原おほうなばらに持もち出いでなむ....
マニアックな読解に入ってややこしと思うのですが、わたしがお伝えしたいのは空白の中の秘詞というよりは、後半の文章のどこかで「聞こしめせ」という言葉が割愛されている事の方が重要で、(繰り返されているからわかるでしょうという意味の割愛かな)それゆえ「かく宣らば」が掛かっていると考えられる”太祝詞”の場所が見つかりにくくなっていると考えられる、という事なのです。
そしてここからがとても大切なのですが、言葉というものは「掛けて、結び」ます。そこで何かが抜け落ちていれば、その言葉を抜かした状態で、新しく「掛かり、結ばれ」ます。それが”言葉”です。
つまり 空白に秘詞を唱えなくとも「かく宣らば」という、太祝詞をさす掛言葉が、後半のどこかに「掛かっていれば」その掛(架)けられた方は必然的に「太祝詞」に成る という、言葉、言霊の神秘についてお伝えしたかったんです。
つまりこの「大祓詞」の、
「かく宣らば、聞こし召せ(ともうす)」
という言葉「=今からこのように太祝詞を唱えますので、どうぞお聞き届けください!」という言葉の「かく(このように)」という言葉が、
後半にれっきとして「掛かっている」以上、それらはもう「太祝詞」として魔法が結ばれている、という事なのです。だから後半部分が大事だし、
最後の文を3回唱えた方がいいよとお伝えした自分の勘は正しいと思うのです。多分スピリチュアル勘ではなく国語感、だと思うのですよね。笑。
なので前半と後半の間の空白に言葉を存在させない場合(上の区分けでは起と承の間)、”アマツノリトノフトノリト(天津祝詞の太祝詞)”は、
「高山の末〜」から始まる祓戸四神の、消滅までの物語、もしくは、ぐぐっ短く掛けた場合、最後の1文「祓い清め給え給うことを(祓ってくださるように)天津神、国つ神、八百万様たちともに聞こし召せ」に掛かっている、つまり、神社に言ったら唱えましょう、となっている「祓い給え清め給え幸き給え」こそが太祝詞だという考えもできるのです。
・・・というところで、この長いマニアック長文解読の前の結論に戻るのですが、笑、「大祓詞」は秘詞を唱えても、唱えずに空白のままにしていても、全文または”かく宣らば〜”以降を唱えれば、霊力のある魔法詞として結ばれている、という事です。
「気にしいさん」がいると思うので、お伝えしますが、欠けている「きこしめせ」に関しても気にしなくてよいです。英語で "Take it to me(わたしにそれをとって)”という言葉を "Take it”と略しても、その人がそこにいればMeは言わなくても存在します。”聞こし召せ”もそうです。何度も聞こし召せ、と言っていて、この事と、この事と、この事を。と結んでいてもその先には”聞こし召せ”が存在します。
以上、国語が嫌いな人には拷問のような回になってしまいましたが、笑、
そんなわけで霊的にも神道的にも語学的にも、この「大祓詞」には大きなエネルギーが宿っているので、安心して、信じて、唱えてくださいな。
ちなみにわたしは、瀬織津姫のくだりにさし掛かる前に(聞こし召せ)を挟み、一拍おいてから「高山の末・・・」と勢いをつけて”My太祝詞”に入るように決めました。
それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆
嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ