「25歳の余命宣告」#想像していなかった未来
「あ、見て!僕が映ってる!」
息子と一緒に病院に行ったときのこと。
入り口に設置された体温測定用のモニターを指さして、息子が嬉しそうに叫んだ。
確かに、息子の顔が映っている。
その隣には……え?誰?おばさん?
モニターに映るそのおばさんの顔を、私は思わず二度見した。
「誰だこの人?」と心の中で問いかける私に、息子が満面の笑みで答えた。
「お母さん!」
やっぱり?私……だよね。
まるでアフリカ大陸のように広がったシミ。
古びた和紙のようにくすんだ肌。
重力に完全に支配された頬。
一体いつ、こんなに年を取ったんだろう。
そもそもこんな年齢になるまで生きると思っていなかった。
なぜなら、私は「26歳で死ぬ」と信じていたから。
想像していなかった「余命宣告」
私は15歳の時、「ルミコは25歳で死ぬ」と言われた。
ただし、それを告げたのは医者でも占い師でもない。
あれは中学2年生の夏のこと。
体育館の倉庫に女子4人が集まっていた。
古びた机と椅子が置かれ、ほこりっぽい空気が漂う倉庫。
だが、そんなことは彼女たちにとって些細なことだった。
彼女たちの目の前には五十音が書かれた紙と10円玉。
女子生徒たちは鉛筆より重いものを持ったことがなさそうな
華奢なの指を10円玉に乗せて、唱える。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください。」
すると10円玉はまるで自分の意思を持つかのように動き、紙の上を滑っていく。
「告白は成功する?」
「高校受験は合格する?」
彼女たちは息を飲み、時には歓声を上げ、夢中になってその動きを見つめていた。
私はその遊びに興味がないわけではなかったけれど、輪に加わる気もなかった。
女同士でつるむのが苦手だったし、群れるのがどうも性に合わなかったから。
だから私はいつも少し距離をとりながら彼女たちを眺めていた。
そんなある日、体育館倉庫から出てきた同級生が言った。
「ルミコは25歳で死ぬ。ってこっくりさんが言ってたよ。」
「え?」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
なぜそんなことを言うのだろう?
意地悪だったのか、それとも単なる好奇心だったのか。
どういう質問をして、どういう流れでそんな答えに辿り着いたのかもわからない。
でもその言葉は私の心に深く突き刺さった。
中学生の頃、私は目立つ存在だった。
年下の女子たちからはファンレターをもらったこともあるし、
バレンタインには手作りのチョコレートをもらったこともあった。
だから同世代の女子の中には、私を疎ましく思う子もいたのかもしれない。
だからって。
なぜ私が余命宣告をされなければならないのだ。
腹が立った。
けれど、時間がたつにつれ、その言葉はじわりじわりと私の脳に浸透し、
無邪気で純粋だった15歳の私は、完全にその言葉に支配されていった。
そうか。私は25歳で死ぬのか----。
それからの私は「どうせ25歳で死ぬんだから」が口癖になった。
どうせ25歳で死ぬんだから、
将来のために勉強しても意味ないし、大学に行く必要もない。
人生は短い。
私はやりたいことをやろうと決めた。
「まずは上京だ!」
想像していなかった「東京の生活」
私が想像した未来は、
トレンディドラマに出てくるようなキャリアウーマンの生活だった。
スタイリッシュなスーツ身を包み、ハイヒールをコツコツと鳴らしながら
銀座を颯爽と歩く自分。
そんな夢を胸に、意気揚々と上京した。
けれど、現実は違った。
学歴も職歴もない未成年を、東京は冷たく突き放した。
仕事を見つけるのも、アパートを借りるのも一苦労。
東京で女が一人で生きることが、これほどまでに厳しいとは思いもしなかった。
現実という冷たい壁に、私は何度も打ちのめされた。
それでも、生きていかなければならない。
奨学金の返済、家賃、光熱費、携帯電話代……支払いは容赦なく迫ってくる。
通帳の残高が減るたびに、東京の輝きが少しずつ色褪せていく。
オシャレなカフェでコーヒーを飲むどころか、
スーパーの値引きシールに目を光らせる毎日。
お金…。お金…。お金…。
少しでも時給の良い仕事を探した。
そして
パチンコ店で働いて、いつの間にか自分がパチンコにハマり、
宅急便の運転手をして、事故を起こして免許を失い、
水商売をして、男に騙される。
気づけば、社会の底辺で、毎晩、安酒に溺れている自分がいた。
「こんなはずじゃなかった。」
それは想像していなかった未来だった。
この状況から抜け出すためにはどうすればいいのか……。
考えた末に、私は一つの答えにたどり着いた。
そうだ。結婚だ。
「やっぱ、女の幸せは結婚でしょ。」
私は、今の苦しい生活から逃れるため、結婚を意識し始めた。
そもそも、上京してからの私は、
少しでも出費を減らしたいという理由で、
付き合った男とはすぐに同棲することが多かった。
家賃も光熱費も折半できる。
私にとってそれは、生活費を削減するための手段だった。
最初の結婚も、そんな流れで始まった。
私の部屋のほうが暮らしやすいという理由で、彼氏が転がり込んできた。
そのまま半同棲を続けて半年ほど経った頃、彼が言った。
「一緒に住むために広い部屋を借りようか。」
当時、私は23歳。
「結婚」という言葉に妙に敏感になっていた時期だった。
結婚すれば経済的にも安定するかもしれない。
それに、死ぬまでに一度はウエディングドレスを着てみたい。
そんな自分勝手ともいえる理由が、私を結婚に踏み切らせた。
想像していなかった「結婚生活」
けれど、現実は違った。
「結婚すれば楽になる」と思っていたのに、
夫は貯金どころか借金を抱えていた。
当然、共働きだ。
夫は家事を一切手伝わないし、食事の趣味も全く合わない。
掃除、洗濯、料理……家事の量は増えるし、
「結婚って、なんの得があるんだろう。」
そんな疑問が頭をよぎるようになった。
まぁ、あと1年。
そう、私には残された時間がほとんどなかった。
こっくりさんのお告げどおりなら、私の命は25歳で終わる。
あと1年我慢すれば、すべて終わるのだ。
そう思えば、なんとか耐えられる気がした。
「やりたいことは全部やったし、やり残したことはない。」
私は自分にそう言い聞かせて、残された時間をカウントダウンしていた。
そして、いよいよ最後の歳。
毎日が恐怖だった。
「今日が最後かもしれない」
事故か、病気か、災害か。
どんな形で自分の終わりが訪れるのか怯えながら過ごしていた。
なのに……
想像していなかった「26歳の絶望」
26歳――
何も起こらなかった。
私は生きていた。
そりゃそうだ。心身共に健康そのものなのだ。
五体満足、風邪ひとつ引かない。
死ぬ要素なんてひとつもない。
でも私は25歳を人生のゴールだと思い込んで、全速力で駆け抜けた。
それなのに、そのゴールが突然、目の前から消えたのだ。
まるで蜃気楼のように。
短距離走だと思って全力疾走したのに、
実はマラソンの通過点に過ぎなかったのだ。
「これから何十年生きるのだろう。」
その長さを想像したら、私は頭が真っ白になった。
私はそれまで「人生が終わる」ことばかり考えて生きてきた。
だから、「その先の人生」をどう生きるかなんて、考えたことすらなかった。
私は初めて「これからの人生」を真剣に考え始めた。
これからの人生、この仕事をやり続けるのか?
これからの人生、この夫と暮らし続けるのか?
「続けるのは無理だ」
それが正直な気持ちだった。
心から申し訳ないと思った。
それでも続ける勇気は持てなかった。
私は仕事を辞め、夫とも別れ、
逃亡した。
私のことを誰も知らない町へ。
もう一度、新しい人生をゼロから始めるために。
想像していなかった「逃亡生活」
逃亡先は山の中の小さなレストランだった。
私は屋根裏に住み込み、仕事を始めた。
朝は屋根裏に差し込む朝日で目を覚まし、
昼は畑を耕し、 花を育て、
夜は満天の星空の下で酒を飲んだ。
休日には一人で山道をハイキングした。
自然に囲まれた静かな日々は、私に
「自分自身と向き合う時間」をくれた。
振り返ってみれば、
これまでの私は自分のことしか考えてこなかった気がする。
「あれも欲しい、これも欲しい。お金が欲しい。」
「周囲に憧れるような仕事がしたい。」
「楽をするために結婚したい。」
そんなふうに、自分の欲求を満たすことだけを優先し、
それが叶わないとすぐに他人や環境のせいにしていた。
「私がお金を稼げないのは、実家が貧乏だったからだ。」
「私が就職できないのは、学歴社会のせい。」
「私が結婚生活がうまくいかないのは、夫のせい。」
気づけば、愚痴や不満、不平ばかり。
いつも「どうして私ばかりこんなに不幸なのだろう」と嘆いていた。
でも、自然と共に暮らすうちに、心が少しずつ癒されていくのを感じた。
東京で貯めこんだストレスが
まるで山の小川に流されていくように、スーッと消えていく気がした。
そして、私は気づき始めた。
もしかして「本当は、私はとても幸せなのではないか」と。
雨風をしのげる屋根があり、温かな布団で眠ることができること。
命の危険にさらされることなく、日々を生きられること。
それだけで、私は十分に恵まれているのだと。
太陽は地上を照らし、水は命を潤し、土は植物を育て、
私たちを生かしてくれている。
その偉大な循環の中で、私は何一つ不自由なく生かされている。
それだけではない。これまで当たり前だと思っていた
会社や上司、友達、家族……
すべてがかけがえのない、尊い存在なのだと気づいた。
このすべてに感謝しなければならないと。
そして、私は決意した。
もう一度、人生をやり直してみよう。
今度は、感謝を忘れずに。
想像していなかった「人生再スタート」
あれから20年間。
私は「生かされている」ことに感謝しながら生きてきた。
すると不思議なことに仕事もプライベートも少しずつ確実に、
良い方向に向かい始めた。
例えば、独立したばかりで、右も左も常識もわからなかった私に、
多くの先輩起業家が、なんの得にもならないのに叱咤激励し、指導してくれた。
彼らの温かい言葉とアドバイスのおかげで、成長することができた。
その恩義には、本当に頭が上がらない。
例えば、経験も実績も何もない私に、「やってごらん」と
挑戦の場を与えてくださった多くのクライアント様。
私の未熟さにも関わらず、信じて仕事を任せてくださった。
その信頼こそが私の支えとなり、次のステップへと行くことができた。
例えば、東日本大震災で、契約していた仕事がすべて打ち切りになり、途方に暮れていた時。
大手企業から突然のオファーが届いた。
「あなたの丁寧な仕事が印象に残っていて」と言われたとき、
過去の努力が報われたように感じ、胸がいっぱいになった。
ピンチに陥った時はいつも誰かが助け船を出してくれた。
気づけば、全国から講演の依頼をいただけるまでになった。
私を支え、助けてくれたすべての人々のおかげだと、心から感謝している。
プライベートでも、この20年は、幸せがぎゅっと詰まった宝箱のような時間だった。
優しい夫との出会い、そして3人の愛しい子供たちの誕生。
私は「命を授けられること」の奇跡にただただ感謝した。
今では家族と共に自然豊かな富士山の麓に移住し、
穏やかな日々を送ることができているし、
45歳で歌手デビューを果たし、大好きな歌を人々に届けることもできた。
もちろん、時には仕事や子育てでイライラすることだってある。
夫婦喧嘩をして悩む日もあある。
でも、そんなのは些細なこと。
子どもたちを抱きしめるたびに「生きていてくれるだけで幸せ」と思えたし、
夫と晩酌を楽しむだけで、「今日も良い一日だったな」と笑顔になる。
今思えば、
感謝は、人生の軌道を修正し、
道を切り開くスイッチだったのかもしれない。
想像していなかった「46歳の顔」
病院のモニターに映る自分の顔を見ながら、ふと思う。
若い頃ならシミや皺を見て「老けたな」と嘆いただろう。
でも、そんなシミだらけの顔を夫は「かわいい」と言ってくれる。
ありがたいではないか。素直にその言葉を受け止めよう。
シミも皺も、私が歩んできた幸せの軌跡なのだから。
想像していなかった「未来へ」
享年88歳。
全国ツアーの最終講演を終えたその夜、私は静かに息を引き取った。
私の葬式には、全国から友人や家族が集まった。
皆、ルミコの思い出話に花を咲かせ、泣いたり、笑ったり。
まるで祝賀会のような賑やかさだ。
15歳の私には決して想像できなかった未来を
88歳までかけて生き抜いたのだ。
我ながら、良い人生だったと思う。
ありがとう。
想像もしなかった未来をくれたすべての人へ。