神の山
本当に美しいもの、本当に心地いいものは
自然の中にしか存在し得ない。
人間の、生き物としてのベーシックな感覚というのは、本来は古くから万人の間で共通しているものである。
それは我々が地球で生存していくためにプログラムされているもの。
人間の力が到底及ばない自然の光景を目にした時、
美しいと感じる。
圧倒される。
だからリスペクトし、崇めてきた。
麗峰、羊蹄。
北海道で暮らす我々にとって
その象徴のひとつ。
誰もが美しいと感じ、圧倒される。
先日思い立って一日中、ただただ羊蹄山だけを眺めながら過ごしてみた。
ふと、大昔の人はこの山をどう見たんだろうと。
昔話によると、
下界がまだ暗闇の世界だったころ
羊蹄のふたつの山を通って
日の神と月の神がそれぞれ天空に昇っていき
交互に下界を照らすようになり昼と夜ができた
と。
だいぶざっくりかいつまみましまけど。
なるほど、納得でしょ。
この山見てたら確かにそんな妄想もする、いやそんなことが実際に起きててもおかしくないな、と思う人は一定数いるはず。
だから、そういうこと。
似たようなことを感じるの。
それがベーシックということ
話は少し変わりますが
これまた大昔の誰かは
この世界の全てを5つのエレメントに分類し、それぞれに+と-つまり陽と陰があると考えた。
各エレメントは互いに影響を与え合って連なり、+と-は常に表裏一体である。
つまり合わせて10の要素、そのうちどれか一つでも欠けることはあり得ないということ。
それなのに現代の人間は
その生き物としての本来の姿とは真逆の方向に進化を続けて、まるで人間が単体でも世界に君臨出来るかのような振る舞いをする。
AIで精巧に作られた人の顔や
薬やメスで切られ加工された生身の人体、
人間そっくりに作られたロボットの動き。
それらは奇妙でこの世のものではないような
恐怖心、警戒心を抱く。
一から十まで工場で生み出された食べ物は、
体が「これは食べ物じゃない」と拒絶する。
だけどこういったものたちが
どんどん作られて、どんどん感覚が麻痺して、そのスパイラルで
本来発せられるアラートを無視し続けるうちにこのままでは人間だけがこの自然から隔絶された存在になっていってしまう。
それが進化・進歩といえるのだろうか。
私は。
本来の感覚を忘れて
そんなサイクルに乗せられるくらいなら
時代に逆行してでも
多少の不便を買ってでも
地に足をつけて生きていたいな、と思う。
かといって、
テクノロジーや最先端のものを頑なに否定するとかではなくて。
(テクノロジーに常にお世話になってるし工場産の食べ物だって食べる時は食べる)
要は何かひとつの考えを盲信することなく
自分の目と自分の感覚で判断できる軽やかな人でありたいな、ということで
山を見て美しいと、
日光を浴びて気持ちいいと、
新鮮な野菜を食べて美味しいと
そういうのを感じられる人でいたいし
その逆も然りで
自分の体にとって良くないという感覚もきちんと持っていたい。
敏感なのはつらいし不便なこともあるけど、
それもまた表裏一体だから。
都合のいいことだけを感じて生きていくことはできないと思う。
以上
羊蹄山について調べてたら
結局ぐるっと回って普段の自分の考えに行き着いてしまいました