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親といえども「他人は変えられない、変えられるのは自分だけ」を実感した話

馬鹿、デブ、ブス

「馬鹿、デブ、ブス」
それはもはや、私の代名詞だ。

実家で暮らしていた頃、名前を呼ばれるように毎日かけられていた言葉。

挨拶代わりのように、当たり前のように、何度も言われる、
「馬鹿、デブ、ブス」。

…そういえば、名前を呼ばれる時も、「名前(もしくは”あんた”)」+「なんか」がほぼほぼセットだったな。
「あんたなんか!」
「あんたなんか!」

呼ばれる時点で、攻撃性と蔑みを感じて心が萎縮する。

「豚」もよく言われた。

テレビに養豚場が映ると必ず「あんた、映ってるじゃん!」と言われるし、
親戚が小さい子供を連れてくると、私を指さして、
「あそこに大きな豚さんがいるぞ!捕まえろ〜〜!」などとけしかける。
積極的に、自分の娘を「笑い者」として、差し出す。

私が豚の鳴き真似をして逃げ回るフリをしないと、「ノリが悪い」ということになる。嫌な顔をすれば、母は「空気を悪くした罰」で、私を徹底的に叱った後に無視をする。

…なんか、小学校の”いじめ”みたいだ。


親からはよく、「ニコニコしてなさい!」と叱られたけれど、
…私だって、ニコニコしていたかった。

笑い者になることでしか、家庭内にポジションが得られないというのは、やっぱり「イビツ」だと思う。


***

家にいるのが本当に辛かった。

しかし、先生やスクールカウンセラーは、たいてい親の味方だ。
「”やめて”と言うあなたの言い方も攻撃的だったのではないですか?」
「反抗的な態度だったのではないですか?」

だから、こちらも最大限の努力をして、親に話しかけたよ。

穏やかな時、「今、時間いいですか?」と前置きして、
「馬鹿、デブ、ブス、と、
 侮辱されるのは、心が傷つくから、やめてほしい。」
と。

しかし、それを聞いた母は一瞬で機嫌を損ねる。

激昂する時もあれば、大きなため息をついて、あの「汚物を見る目」で私を見て、無視をする。…その後、私が憔悴しきって謝るまで、無視を続ける。

「あんたの話には、取り合いません」と、母は毅然とした態度で示す。

無視されるから、こちらが主張する声も大きくなる。
無視と主張…その繰り返しで、段階的に、私の声も大きくなる。
その声は、最終的に叫び声になる。

そして、その時を週刊誌のように切り取って、
「長女が突然キレて怖い。手に追えない。態度が悪い。」
と母は先生に相談する。

…相談員は、親の味方になって、私を「指導」する。


「親が自分の子供を下げて言うのはふつう」
「人前で我が子を卑下するのは日本文化」
…そう言われると、私が特別”キレやすい”体質なのかな、と思ってしまう。
…悪いのは、我慢できない自分であると、無理に納得してしまう。



パワハラ事件の報道

ある朝、テレビでとあるスポーツ選手がコーチをパワハラで訴えたニュースを報道していた。

そこで挙げられていたワード、フレーズが、そのまんま我が家の会話そのものだったのだ!

特に、「〇〇できないお前はただの豚!」という部分。

報道では、〇〇の部分に競技名が入っていたが、我が家では"勉強"が入る。

人前でも、そうでなくても、親からはずっと、繰り返し、
「お前はブスで一生結婚できないのだから、勉強しろ!」
「勉強できないお前は、ただの豚!!ブス!」
と言われてきた。

これは、訴えて良いレベルの暴言だったんだ!


この報道は、私の心をとても軽くした。

実際に親を訴えることはしないけれど、普段から、
「親が自分の子供を下げて言うのは普通のこと」
「人前で我が子を卑下するのは日本文化」
「そのくらいでキレるお前がおかしい」
と言われ、「犯罪者予備軍」とまで囁かれた私にとって、それは人として怒って当然の侮辱なのだと認められたようで嬉しかった。


…ただ、それを突きつけたところで、親が変わることはなかった。

落ち着いて、「自分も態度を悪くしたこと」を謝った後、
入念に「攻撃するつもりはない」ことを前置きし、
「ブス、デブ、豚」と言われるのは、たとえ「応援(発破をかけてもっと頑張らせよう)」の意味があっても傷つくからやめてほしいと伝えた。

母の答えは、
「…だって、あんた、ブスなんだもん。」
だった。

「…だって、事実じゃん。」

「…馬鹿にバカって言って何が悪いの?」

「…だって、自分の娘じゃん。
 私は、コーチとかじゃないし。あんたは客じゃない!」


「…あんた、一体何様なの?」
ぽつぽつ話していた母も、だんだ怒りのボルテージが上がっていく。

そしてそれは一気にMAXになり、「あんただってこういう悪いところがある!!だいたいあんただって…」と、猛烈な勢いで巻してたてきた。

こうなると、もう、
母のターン母のターン母のターン母のターン母のターン母のターン
母のターン母のターン母のターン母のターン母のターン母のターン
母のターン母のターン母のターン母のターン母のターン母のターン

である。

こうなると、もう拗れてしまってだめだ。

結局、私が床に額をつけて謝罪したのち、もう二度とこの話は口に出さないことを心に誓った。


あなたは努力したのか?

こんな話をすると、よく、「あなたは努力したのか?」とも聞かれる。

もちろんしたさ。

「馬鹿、ばか、バーカッwwww」と言われないために、
難関として知られる大学を卒業した。

デブは普通の生活をすれば解消した。
(両親・祖父母ともに、”愛情”と称して、とんでもない量を食べさせてくる)

ブスも…時間とお金がかかったが、だいぶ改善した。
昔からの知り合いに会うと「整形した!?」と言われるのが自慢だ。


膨大な時間を費やしたが、親の態度というものはあまり変わらない。

大学を出れば、
「大学出のくせに(そんなこともできないのか)」が常套句になるし、

今でも家に帰れば、
「ちょっと太った?」とお腹をつまんでくるのが挨拶がわりだ。

毎度毎度のことなので、もうここまでくると、もはやイライラのコントロールは自己責任だと思っている。


他人は変わらない、変えられるのは自分だけ

あれから何年か経ち、親も老後を気にするようになった。

「色々お願いしたい」

と言うから、その時あらためて、

「馬鹿、デブ、ブス」をやめてほしいと言った。

すると、
「そんなこと言ったら、あんたに言うこと何もなくなるじゃん。」
だそうだ。


この時ほど、
「他人は変えられない、変えられるのは自分だけ」
と言うフレーズを思い知った時はない。


私は、両親を愛しているし、老後にも責任を持ちたいと心から思っている。

ただ、侮辱するのをやめてほしいのだ。

平日働いて、土日家に帰って、精神まで削られると、本当にエネルギーがなくなってしまうのだ。


そして、この時から、「これは両親ではなく、自分の問題なのだ」と思った。

親は変わらない。
「介護はするから、暴言はやめて」は、通用しない。

親と暴言はセットだ。
変わらない親と、今後も付き合い続けるかどうかは、「私の」選択なのだ。


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