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なぜ私の父親は、あの人だったのか

スピリチュアル的には、「子供は親を選んで生まれてきた」という考えがあるらしい。また、「その親でなければならなかった」何らかの意味や必然性がある、という考え方を提唱している人もいる。

…個人的には、そういった考えは大嫌いだ。
救われないからだ。

だけれども、今日は、あえて、その観点から自分の親子関係に思いを馳せてみよう思う。

なぜ私の父は、あの人だったのか

なぜ私の父は、あの人だったのか。

あの人でなければならなかったのか。


父は、酒・タバコ・暴力・ギャンブルそして女、と「ダメ夫」の特徴を全部盛り込んだような男であった。

私は実家を出てずいぶん経っていたのだが、先日、かの父が余命宣告を受けて看病が必要だというので渋々戻った。

(すでに他の家族とも別居していたので、正確には”別宅に”だが)

その父の家のドアを開けてすぐ、後悔した。

玄関先の床には女性もののフリフリヒラヒラなパンティが落ちていた。そして、明らかに、風俗の女性を呼んだ形跡がありありと残っていた。

思わずため息を漏らした私を、父は怒鳴りつけた。
「俺のすることに文句があるのかああああああああああ!!!」

いや、文句はないよ。ただ、そのだらしなさに、ちょっと引いただけ。
娘が看病に来ることがわかっているのだから、パンツくらい片付けなよ、と。


ま、あれは、洗礼……というか、軽い”罠”だ。

私の反応を楽しんでいる。

もしくは、怒鳴りつける口実を作っているだけだ。


家中に、地雷が埋めてあるように感じる。
何をしても、しなくても、父を怒らせてしまう。

父の入浴中に用意した下着とタオルがヨレていた……という理由で、その日は深夜2時ごろまで土下座させられていた。

下着やタオルがきちんと丁寧に用意されていなかったことは、つまり、自分が大切に扱われていないように感じるのだそうだ。傷つけられた。テキトーに置かれた下着は俺への侮辱だ……だから怒りのたけをぶつけていい。俺は被害者なのだ!!!!

その思考回路が、母と同じすぎて笑った。


「話し合いができない人」が存在するということ

私は、父以外の男性で、こんなにも沸点の低い人を見たことがない。
(「男性で」と書いたのは、母の存在があるからだ。笑)

挨拶のタイミング、表情、もちろん話す内容、相槌、……失敗すると、一瞬で火がついたように爆発する。顔が真っ赤になって、白目を剥く。抱きついてきて、締め上げてくる。

母などは、「ビールが冷えていなかった」などの理由で、半殺しにされていた。

話し合う余地など全くなく、あれほど瞬間的にキレる人はなかなか珍しいと思う。


外部の相談員からは、
「あなたにも、問題があったのではないですか?」
「親御さんともっと話し合ってみましょう」
「きちんと、”嫌”だって言葉で伝えましたか?」

いったアドバイスをされるのがお決まりだ。

カウンセラー以外に相談すれば、説教されるのがオチだ。

「話し合い」なんてできない人種がいる、ということをプロのカウンセラーでも理解できない場合があるのだ。


……たぶん、この人が実父でなかったら、私もその一人だっただろう。

対面して、「ダメだ。全く話し合うということができない。」という感覚。
これを味わったことがない人は、話せば、相手はその声に耳を貸してくれると思っている。オメデタイ。


……でも、たぶん、この人が実父でなかったら、私も「正義マン」の一人だった可能性がある。


***

私は、父以外の知人男性から性的な嫌がらせを受けたことはない。
(電車の中で痴漢に遭遇した事とかならある、が)

しかし、父の振ってくる話題は、常に誰かの悪口か下ネタだ。父の私への接し方は、明らかに「セクシュアルハラスメント」的なそれだったと思う。


もちろん、話し合って「やめてほしい」など言える雰囲気ではない。


だから、あの人が父でなかったら、私の脳には「一般的に、男性は紳士的だ」と刻まれていただろう。

…あの男が私の父でなかったら、私は、身近な異性からの性的嫌がらせに困っている人に、「あなたにも原因があるのでは…?」と、冷ややかな目を向けていたかもしれない。そうして、二次的な精神的苦痛を与えてしまっていたかもしれない。


あの人が父でなかったら、私は世の中の無言の抑圧を知らずに生き、無言で抑圧する側の人間になっていたかもしれない。


自分の話したい話題だけを垂れ流す父。
一瞬でキレて、すぐに暴力に訴える父。

…その父は、「俺は、被害者なんだ!被害者なんだ!わかってくれ」と泣きながら繰り返す。

父と私は合わせ鏡なのかもしれない。


父はいつも、自分が傷つけられた、だから怒った、と主張する。


…であるから、私は、親子関係その他において、「自分は被害に遭った」と思うたび、父の姿を思い返す。

私は逆に加害者なのかもしれない。


あの父の姿は、客観的に見た、私の姿なのかもしれない。



「自己愛」の化身のような父。

その父の姿が常に頭の片隅にある。

ガサツな私が、人の心の不確かさを知るためには、あのくらいの荒療治が必要だったのかもしれない。


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