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私にとって「書く」ことのカウンセリング効果

私にとってnoteに「書く」ことは、一種のセルフカウンセリングである。

書き出すことは、私にとって、自分の中に蠢く無数の「自分」を成仏させる行為なのである。


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私の中には過去の自分が…過去の思念が、そのまま保存されている。

その時、昇華されなかった思いがフリーズして、「中3の自分、高2の自分、ハタチの自分……」のように存在している。そして、それぞれの自分が、フリーズした年齢のまま、何かを叫んでいる。

圧殺された思いが、死にきれない霊のようになって、に私の体の中に溜まっている。


私がnoteに書く出来事は、実は10年以上前に起こった出来事の場合もある。

しかし、自分にとっては文字通り”昨日のことのよう”なのである。その時のことがそのまま凍結されて、「18歳のあの日の自分」のような形で自分の中に残ってしまう。

親からドロボー扱いされたことなどは、今でも夢の中でリアルに再現されるため、その記憶はいつまでも鮮明なままである。


私の頭の中では、たくさんの自分が常に主張をしている。

毎日、「今日は、君にしようか」と一人ずつ向き合い、その一人に気持ちを書き出させる。だから、noteの私の精神年齢は18歳だったり、24歳だったりする。

でも、最後に今の私が読み返して、「だたの甘ったれ人生です、すいません」とか「…とはいえ、叱ってもらったことに今は感謝している」的な一言を入れないと炎上してしまうような気がして、勝手に一文を付け足しては、チグハグになっている(笑)


思いを、最後まで語らせると、「その自分」は消えていく。
成仏するという表現が合っているように思う。

その悔しかった日のことは、思い出さなくなる。


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noteに出会う前に、カウンセラーからは、
「たくさん書き出して、誰にも見せずに燃やしてしまいなさい」
と言われていた。

そうして、書き出したはいいけれど、どうしても燃やせなかった。

一度「黙殺」した自分を、もう一度「殺す」ようで。


濡れ衣の記憶も、「私はやってない。私は犯人じゃない。」と書いて、燃やせばいいのか?…それをしても、この世で私を知る全員が、「あんたが犯人だ」と思っている事実は変わらない。何も変わらないじゃないか、と思った。

書いて燃やしてしまったら、言いたかったことも思いも全部、無理やり消滅させられる感があって悔しい気がした。


だから、一時期は「傾聴してくれるカウンセラー」に依存した。

この世の誰かが、ただ「私は犯人ではない」と信じてくれさえすればそれでいいと思った。

でも、カウンセラーにとって私は、ただの「対象物」だ。
仕事で扱う「対象物」だ。

「え〜〜っと、どなたでしたっけ。………ああ、夫婦関係でご相談の。
 ……え?違う?あ、ごめん、別の坂巻さんのカルテ見てた。」

風邪で病院に来た時の診察なら、それでもいい。

……ここにも「私」がいない、と思った。


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たくさんのカウンセラーにお世話になり、でもあまり効果は感じられず10年以上が過ぎた。

ある日、カウンセラーに滞りなく話すために(なんせ50分1万円だ)、「今回はコレ」と、癒してもらいたい対象の出来事を決めて、紙のノートにまとめた。

……なんとなく、それだけでスッキリした。

もっと書こうと思った。
PCの方が早いから、メモ帳機能に書くことにした。

……何万字書いたかわからないくらい書いた。

なんとなく、noteに書いた。
……自分と同じような人がいることがわかったから。


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正直、「公開」するのは良くないと思っている。

もしも、万が一、バレたら、きっと家族から名誉毀損で訴えられると思う。
だってどんなに私が傷ついていても、親には全く悪気はないし、”愛”しかなかったと思っているから。

そして、子供が”悪いこと”をしたら、徹底的に罰するのも親の役目と思っているから。


それでも、親子関係の苦しみは、「わかる人にしかわからない」。

私の家庭は、一般的な目で見れば「とても恵まれた家庭」なので、愚痴を漏らすこと自体が罪であるように扱われる。

はっきりわかりやすい「虐待」ではない、「いじめ」。

「軽いからかい」、「可愛がり」、「ちょっとしたふざけ」、「しつけ」、「照れ隠し」…etc. の範疇と言われるような、「家庭内の会話」が辛い。

私にとっては不要なモノ・好みでないモノを、”愛情”と称してたくさん送りつけてきたり、消化不良を起こすほどたくさん食べるよう迫ってくるのが辛い。

微笑ましい、愛情深い親?


わかる人にしか、わからない。


その「わかる」誰かが、読んでくれたらそれでいいと思う。
何年先でもいい。

その希望があるだけ、「目の前の一人のカウンセラーに全てを賭ける」よりは気負わなくていい。

黙殺された思いを好きなだけ語らせて、「投稿」する。

そうすると、語った「自分(=インナーチャイルドのひとり)」は成仏する。


ドロボー扱いされた「あの日の自分」は、結局、何度主張しても、無視された。「もう二度と蒸し返すな」と怒鳴られ、主張を諦めた時に、死んだ。

それ以来、「やってない、わかってほしい」という「思い」は、ずっと霊のように私に取り憑いていた。しかし、noteで言いたいことを言って、思いを果たしたら、その影はすっと薄くなった。


毎日、毎日、「過去の思い(=インナーチャイルド)」たちが「聞いて、聞いて」とうるさい。書いて、投稿しないと、うるさい。

でも、投稿の責任は、今の「大人の私」が取るんだけどね。とほほ。





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