「#死にたい」という救い
noteの検索欄に、恐る恐る「死にたい」と打ち込んだ。
すると、「#死にたい」と現れた。
この瞬間、私の心がスッと軽くなった。…「心って本当に重さがあるんだなぁ」と実感するくらい「軽く」なった。
ここには、私の居場所があると思った。
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「死にたい」は「言ってはいけない」ワードだと認識されている。
ジサツはダメ、ゼッタイ。
SNSでもYou Tubeでも、「死」に関するワードには伏せ字が用いられたり、一部をカタカナや「4」で置き換えているのをよく見かける。
それらのワードをストレートに使ってしまうと、「社会的に害悪のあるサイト」として、最悪の場合アカウント停止などの措置が取られるのだろう。
「死にたい」を実行することは世の中的に悪いことであり、それを連想させたり、他人に「そうしたい」と思わせるような発言も罰せられるという空気がそこにある。
じゃあ、この気持ちはどうすればいいんだ?
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毎日、体を引きずるようにして会社に行く。
頭も心も空っぽにして1日分の作業をする。
頭の中身は鬱病になった時にぶっ壊れたので、「軽作業」的な仕事しかできないのに、17時には疲弊している。
エネルギーは既にマイナス値なのに、そこを何とか頑張って、コンビニのスイーツでHP(体力)を30ptくらい回復して、夕飯作り、トイレ掃除、風呂掃除、洗濯etc.etc…
カウンセラーによると、1日8時間働けて家事全部やってたら、それはもう鬱病じゃないんだって。よかったね。
死にたい。
朝ごはん食べてる時も、会社で「軽作業」している時も、家で洗濯物たたんでいる時も、クイックルワイパーかけてる時も。死にたい。
楽しそうに笑っている時も、おちゃらけている時も。
…いや、そういう時の方が、確実に無理しているから、死にたい。
私の人生には、「私」がいない。
私が選ぶ服も髪型も、趣味も、母からすれば全部「低俗」で「趣味が悪く」て、嫌悪感があるんだって。
「いい子」になりたかった、でもなれなかった。
「優秀」になりたかった、でもなれなかった。
拒食する母を振り切って、「自分」の人生を生きられなかった。
誰かに、……家族に、愛されたかった。
でも愛されるには、「自分」を殺して生きるしかなかった。そして、どんなに自分を殺して生きても、それは相手が私の成果に「満足」しているだけであり私を愛しているわけではないことがわかった。
「死にたい」というか、エネルギーがない。
少し動くのも、笑うのも、つらい。
私が「自分」を生きる…つまり、自分の好きな服を着て、好きな趣味をして、自分の意見を言う時、溜め息をつかれる。「お前には、失望した。」と言われる。
今現在の、私の素直で正直な気持ちは「死にたい。」。
でもこれは、…こういう気持ちを発信することはおろか、こんな気持ちを持つこと自体も「罪」であるように教育されている。
子供に接する時、
「そうか、痛いんだね。」
「寂しかったんだね。」
「悔しかったんだね。」
と、単純な共感を示すだけで気持ちを落ち着かせることができるらしい。
「死にたい」と言っているのは、多分、自分の中のインナーチャイルド。
チャイルドが、「死にたい」と言うと、頭の中の優等生が「そういうこと、言っちゃいけないんだよ!」と怒る。
「死にたい」を持っているだけで罪悪感が生じ、それがさらに「死にたい」加速させる。
noteでは、意外とたくさんのライターが「#死にたい」で記事を投稿していた。
「そうか、死にたいんだね。」
「そういう気持ちなんだね。」
「わかるよ。自分もだ。」
「死にたい気持ち」を封じ込めてはいけないと思う。
封じ込めるほどに、蓋をするほどに、その気持ちが大きくなってのしかかかってくるからだ。
そこにある「死にたい」と素直に共存し、半分死んでてもいいから一緒にいる感覚を得る。すると、毎日同じように辛いけど、「死にたい」を意識する時間がほんの少し短くなる。
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