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「傾聴には技術がいるんですよ」という話

母は、私に数々の…非常にたくさんの不満がある。

その中で、特に不満度の高いものが、
「もっと祖父母の話し相手になってあげてほしかった」
というものだ。

***

私の家族は、みんなが「自分が話したい」タイプの人間だ。
聞き役がいない。
(そのことに、同居していた当時は気づいていなかった。)

子供がワーワー話し始めると、祖父が
「俺の話を聞けーーー!!!」
と怒鳴るし、父は父で、
成人した娘に超超超長文メールを送りつけてくる。
母は母で、
娘どもに電話して夜中まで愚痴をいう。

(ま、それぞれの親が話したり送ってきたりする内容は、
 私がnoteに書き殴っているような鬱憤なので、血は争えないのだが…笑)


祖父母は、自分の話を真剣に聞いてもらっていないと感じると、大変機嫌が悪くなる。

そして、母は、その聞き役は子供たちの仕事と勝手に決めつけていた。

だから、祖父母の不機嫌は子供達の責任という理屈で、祖父母が不機嫌だと私が母から怒られるのだった。


私も、(当時)まだ働いていないのだから、そのくらい家族に貢献するのは当たり前のことと思っていた。

だが、これがどうにも苦しくて続かないのだ。

私は度々途中でギブアップして、祖父の逆鱗に触れ、
「祖父を怒らせた罪」「家庭の雰囲気を壊した罪」で母に罰せられていた。


お年寄りの話を聞くということ

祖父母の話というのは、たいていこうだ。

  • 昔(戦時中)の辛かった話

  • 苦労話

  • 武勇伝

  • 親や村人からされた酷い話・許せない話

やはり、「親からされて傷ついたこと」というのは90歳を超えても残るものなのだ。悔しい、悔しい、と言って何度も語る。

それと、やはり、「冤罪の記憶」だ。
村人に濡れ衣を着せられた記憶についても、「あれは、俺じゃない。俺はやってない」と繰り返し、繰り返し、語る。

今、私は、noteに書くことで自分を癒しているが、祖父母にはそういった手段がない。

一度カウンセリングも進めてみたが、「カウンセリング」と言ってもピンとこなかったようで、「精神病院へ行けというのか!」と逆上させてしまった。


今、私はある程度自分の気持ちが整理できているので、「聞いてほしいという気持ち」や、「自分はやってない(冤罪の記憶)」が本人にとってどのようなものか、ということがわかる。

しかし、中高生の私にとってはそれがイマイチよくわからなかった。

むしろ、まだ親に自分の悩みを聞いてほしい。

それに、何度も何度も同じ話を繰り返されると、「またその話か〜」と飽きてしまい、話半分…という態度なってしまう。そっけなく「ウン、ウン、…」と相槌を打ちながら上の空だったりして、祖父によく怒鳴られた。

当時の私の態度は、祖父母に「自分の話を真剣に聞いてくれない」=「自分を大切に思ってくれていない」と感じさせてしまったに違いない。

祖父は、話し始めると、「食うに困らぬ時代に生まれた世代」である私に理不尽に怒りを向けたり、話が紆余曲折したのち「…だからお前はダメなんだ!俺たちの時代は…」と無駄にヒートアップして怒鳴ることも多かったので、これも「祖父母の話し相手」という仕事を避ける理由になっていた。


傾聴には技術がいるということ

大人になってからも、祖父母と対面すると、繰り返されるストーリーに「またその話か〜」とうんざりしていた。…ただ、怒らせないようにというこに注力して”仕方なく”聞いていた。

「傾聴」という言葉を知ったのは、恥ずかしながら30歳を過ぎてからだった。


そして、自分自身も、親子関係の記憶から心身ともに支障をきたしてカウンセリングに通うようになっていた。

ここで、「傾聴」にも技術がいる、ということを実感した。

特に心に刺さる助言がなくとも、カウンセラーが本当に親身に「聴いて」くれているな、と感じるときは、心が軽くなった。


また、私自身、(同じカウンセラーに何度も同じ話をするのは後ろめたいので)カウンセラーを変えて、何度も同じ話をしに行った。

1つのストーリーに対して、1人のカウンセラーから満足のいく反応や同情が得られなかった場合、それを複数のカウンセラーに話すことで埋めようとしていた。


そして、気づく。

自分が話したい話を聞いてもらうって、お金がかかる。


当時、私は時給千円で働いていた。

カウンセリングは50分1万円だ。
…生活費もあるから、日当を全部は使えない。10日以上働いて、なんとか1回分を貯めて、50分に賭ける。

もはや賭けだった。

良いカウンセラーに当たらなければ、
にこやかに「うん、うん、それは辛かったですね〜〜〜」と、
”Bot”でもできそうな返事をひたすら返されて50分が過ぎる。
安直に、「親と絶縁しろ」と繰り返すだけの相談員もいる。
(それができれば苦労はしねー!)


「傾聴」は、する側に、ある程度の人生経験が必要なのだと思う。

たとえ、一般の普通の人が、「そんなことくらい」と思うようなことでも、その人自身の性質や状態によって、「抱えきれない」問題だということ。

そもそも(鬱などで)「正常な思考ができていない」可能性があることを加味して聞くこと。

「もう過ぎたことだから忘れろ」と何度言われようとも、「忘れることができない記憶」に本人も対処できずに困っていること。


何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
同じ話をすることで、少しずつ、少しずつ、少しずつ、少しずつ、
薄れていく記憶があるということ。


祖父母は晩年、「同じストーリー」をかなり短いスパンで何度も(2, 3時間のうちに何度も)話すようになった。

正直、祖父に対して、私は傾聴者として満足な働きができたとは思えない。

ただ、短い間ではあったけれど、祖母にはある程度、「傾聴」を学んでから接する時間があった。


1回、1回、とにかく目を見て、全身全霊で「聴く」。

その1回を、今初めて聞くものとして、深く頷き、唸り、相手が求める相槌を慎重に入れていく。

…安易な共感は、返って「テキトーさ」を醸し出す。

戦争や戦時中の暮らし、激しい「嫁姑」関係についての前知識も必要だ。

「おばあちゃんの時代は、そんな酷いことが常識だったなんて!」
という純粋な驚きと、心から出る「大変だったんだね」という言葉。表情。
何より、相手の自尊心を満たす「返し」が求められる。

「傾聴」は、仕事だ。


…だから、「当時の高校生だった自分にはそもそも無理だった」と言い訳するつもりはない。あの当時も、もっともっと努力することはできたはずだ。

ただ、「傾聴」というのは、高額な料金をとるプロですら、
クライアントを100%満足させられるとは限らないテクニックだ。

特に、(戦争経験者など)大きなトラウマを抱える相手を満足させるには、高い技術がいる。

共感、同情、尊敬、癒し

それらを接妙なバランスで調合した「相槌」。……私の祖父母が求めていたのは、「単に話を聞いてほしい」という思いを超え、明らかに技術力のある「傾聴」だった、と思う。


というか、大金を稼ぐ人気キャバ嬢というのは、
結局「傾聴」の技術が凄いのではないか?

愚痴や不満を聞いてあげて、相手の自尊心を満たす相槌を返す。

美人かどうかより、そういった「技術」なのではないか?

それは、勉強して、経験を積んで得るものであり、そこに通う人は、その技術には高額な対価が支払われるものとして納得している。


***

もし、長期休暇で子供を祖父母の元に連れて行った際、

「子供が祖父母を満足させない」
「じいちゃんばあちゃんの話くらい聞いてやってくれ」

と思うなら……大変おこがましいのを承知で、この記事を参考にしてほしい。


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