四天体牡牛座集合の期間を振り返って思うこと
2024年5月15日、
友人との対話を経て
星々の影響を受けた身体がどんな反応をしているか
を観察しようと決めました。
期間は、
牡牛座に太陽・金星・木星・天王星が集まっている5月15日から、
木星が双子座に移動するまでの十日間を設定しました。
(木星は5月26日に双子座入ります)
そそっかしい私が「木星」の移動にのみフォーカスしたため、
25日までと、ざっくりとした期間を決めたのですが、
昨日20日には「人生の目的」「運勢の土台」などを司る太陽が
先んじて双子座に入り、木星を待つ形に切り替わったので、
ひとまず2024年5月15日から2024年5月19日までの四日間、
自分が何をして、何を感じていたかを振り返ろうと思います。
5月15日 友人との対話
この日は前日から目が冴えたまま日を跨ぎ、
新しく1日を始めました。
何か悩みがあってそれが理由で寝付かれないとか
そういうのではなく、
ただ単に床に就いてからの4〜5時間、
まどろむことなく寝そべって過ごしていたというだけです。
ただ、一方で確かに「悩み事」らしきものも
形になりつつありました。
その悩み事というのは、
「私はまた“死の循環”に陥ったのではないか」という不安です。
要は、
長年やっていて、もう二度とやるもんかと決意していた
「我慢→疲弊→意気消沈→現状維持に耐える(我慢)」
に至る選択を自ら選び取ってしまったのではないか、
ここに至るまでの選択で、
思い込みによる妥協は無かったか
せっかくの、
この負のループから脱け出せるチャンスを、
知らず知らずのうちにふいにしていたのではないか
という不安です。
こういう葛藤が芽を出し始めていたときに、
友人から、
「今は大事な土台づくりの時期」というメッセージをもらい、
それなら、
これまでの出来事に説明がつくんじゃないか
と思い直すことができました。
思い返せば、淡路島に来てから
自分のスキキライを如実に感じる数週間を過ごしている。
私はちゃんと、自分の体感をもとに
この必要性に気づくことができていたんじゃなかろうか、
と、ピンとくるものがあって
友人に、対話の場を設けてもらいたいとお願いしたんです。
私は、ここしばらく
方々を彷徨って行き着いた先の神社に挨拶をしては、
「私は神仏宇宙(純粋なもの)の意向を汲み、
自らを筒にして然るべき形に表現する役割を賜りたい」
と宣言してまわっていました。
友人からもらった
「いまは、この筒を純化させるために
必要なプロセスが起こっているはずだから、
自分の体感に主導権を明け渡して」という言葉が
腑に落ちて、不安を前向きに切り替えることができました。
5月16日 自分の中に混ざり合った「強がり」と「本音」を見る
友人との対話を経て、私はそれまでの不安から一転、
前向きに今の負の感情を観察してみようという気になりました。
この時分に考えていたことは、以下の通りです。
私自身がこの人生で感じてきた「快」で、
一番多くの割合を占めてきたのが
「修行によって変化を達成する」
「(起こる事象を)加圧トレーニング(に変えて、
それ)によって(精神的に)強い自分を目指す」
という、ドーパミン系のものだったのですが、
これって、「それをすること自体が快」ではなくて、
「それをすることによって得られる報酬が快」なんですよね。
「快」を模索する中、
これまで「お気に入りだったもの」のほとんどが
「来たストレスを平然と乗りこなした自分を褒める時間の気分の良さ」
という、ざまあみろ系の「快」だったことに気づきました。
私の「好き」には、
そのざまあみろ系の「快」と、
身体が感じる「それをすること自体が好き」とが
混ざり合っているので、
「それをする自分はお気に入りだけど、
そのこと自体は好きではない、全然楽しくない」
みたいな微妙なものを
一つ一つ選り分けて、
「コレ違う」と気づく作業が必要らしいことが発覚しました。
ちなみにこの日(16日)は、
ちょうど仕事がお休みで、
今日は心置きなく「快」を探究できると
喜び勇んで外に飛び出しました。
結果は以下の通りです。
帰寮後、わらしべに縋るような流れで
徐に触った本には、
こう書かれていました。
そのフレーズに、私は
「そうか、そうだよな」と感じ入りました。
…、その日の私に起きたのは、
そのとき「行きたい」と思った方向に進む
ということを選び続けた結果、
迷子&遠くにまで足を運びすぎ、
帰寮までに体力を使い果たすことになった…ということと、
それによる行き過ぎた空腹感に任せて
食べたいものをありったけ食べたため、
その後、過度の満腹感と消化不良で
苦しむことになった…ということで、
振り返るとしょーもないんですが、
まさしく
「欲に任せて行動すると“苦しい”状態にもなり得る」
ことの実感を得たと思ったんです。
「現実化のために行動すると
結果として返ってくるもの」といえば
「現実」だから、
いろんなものを包含している。
楽しくなりたくて動いたからって、
「楽しい」だけが返ってくるわけじゃないんですよね。
「ああ、こういうことか」と。
…『仏音』の表記が
本当にそういうことを言いたかったのかはわかりませんが。
5月17日 読み解いても解放されたわけじゃない
「自縄自縛」の存在に目がいく
この日から三日間ほど、
お宿でのお仕事をすることが1日のメインになっていました。
私はここしばらく、
宿泊業(の班末に列すること)に再び身を投じた件について、
妙な負い目を感じていました。
理由は、1年前のおてつたびで一度、
「ここは私が資源になり得ない場所かもしれない」
と感じておきながら、また来ちゃったからです。
「人様の迷惑をかえりみない悪い子な私は、
そうまでして何がしたいのか」
というテーマで記事を書こうとして、
筆が進まずにしばらく放置しているくらいでした。
(今のところ完成の目処は立ちません。
着眼点がズレていることに思い当たったので、
全く別の話題に挿し変わる可能性の方が高いです。)
ここからしばらく思案した結果、
根本的な部分で、
私自身に自分を縛り付ける
「いらない価値観」が残っていて、
それがこの「負い目」に
少なからず影響を与えていることにも
気づきはじめました。
5月18日 「不愉快な現実」を受け取り、「愉快」を知る
この日は明確に「ああ、不愉快だな」と感じることが起きました。
「不愉快だ」と認めることの新鮮さが心地よく、
不愉快な事象そのものが起こったあとは、
咀嚼によってあっさり切り替わった…というか
むしろ「愉快」に反転して、
その日の晩は
ニヤニヤしながら夜道を歩く危ないひとになっていました。
ただ、
こういう不愉快な事象が起こるに至るまでには、
私の方でもちょっとばかし問題が起こっていて、
この不愉快な事象が発生したこと自体が、
私の方の問題に起因している部分も
少なからずあるんじゃないかと思っています。
…これは、
「言うと他者を不快にさせるから(嫌われたくない)」と思って
あまり表面に出さないようにしてきたことなんですが、
私は特定の場面に遭遇したとき、自分の内面で
「僻みから生ずる不機嫌」と
「私は人と打ち解けられない思い癖があるから、という自責と諦め」
との相剋が起きます。
この相剋状態になっているときは、
おそらく他者の目にも異様に映るのだと思います。
三十代に入ってからは
自分を偽らなくなって、
さらに行動範囲が広がったこともあり、
私の内側で葛藤が起きた(人の集まる)場所では、
人間関係のギクシャクを引きずる相手が
ちょいちょい出てくることも経験するようになりました。
5月19日 インナーチャイルドの問題と対峙する切掛を掴む
この日(19日)は、ひとつの清算が起こった日かもしれません。
そもそも、ここしばらく続いていたことも
軋轢というほどでも無いんです。
相手方から「その方の抱える不愉快」を
こちらにぶつけて来られるようなモーションがあったので、
それに反応して私も「不愉快」を感じた、
なので和気藹々とした反応はできなかった。
…という日が続いただけです。
先方も、私に対して拒絶反応があるだけで、
正直でさっぱりとした方だと思います。
「ああ、私たち、本当に合わないんだわ」
とおっしゃったので、
思わず、「本当、合いませんねえ」と
ちょっと馴れ馴れしく応えてしまいました。
…こういうとこですかね。
この清算の日から2日ほど経ったのですが、
こういう(おそらく)根は正直な方との交流をも諦めることになる
私の中での「僻みと諦観」、それに伴う「思い癖」
を洗い出しはじめているので、
ここに詳細を書き出していこうと思います。
(なんとでもなあれ)
癒されていないインナーチャイルドと、
そこから生じる思い癖
私はこれまでにも、一応
「自分責めの思考の原因」と思われる
過去の出来事を洗い出すことで
一方的な自己批判から脱け出し、
「自分の味方」になれるように
変わってきた経験を持っています。
そのときの経験から、
「自分の感覚をすべて受け入れて、
じっくり読み解けば、
自分自身にかかった呪いから自力で脱出できる」
という成功体験を得ていたのですが、
ここしばらくの出来事によって
「読み解いて、理解できるようになっても、
その出来事に直面したときの
咄嗟の受け取り方は変わらない」
という第二関門の出現に直面していました。
受け入れたくなくて、
しばらく
ああでもないこうでもないと
別のことに原因を探って
お茶を濁していたのですが、
どうやら今回、私の前に現れたのは、
私自身が「情けない」「見たくない」
「そんな自分がいることを認めたくない」
と思っている自分の姿でした。
具体的には、
「傷ついて不貞腐れたこども」の私が、
意識の表層にのぼってきていたんです。
幼少期に「いい加減に学習しろよ」と
何度も繰り返していた失望
まず、人間関係でぎくしゃくするときの予兆として
私の中で起こる「不愉快」「こういうのキライなんだよ」という
怒りにも似た反応を
状況とともに言語化すると、こんな感じです。
この、自己アピール・パフォーマンスという解釈には、
「私のことを見ないまま、
その他者自身を私に見せつけにきているに違いない」
という先入観があります。
いわゆる、
「どうせ私なんて」から出発した、
特有の受け取り方だと思います。
さしずめ、
「私の話はだれも聞いていない」
とか、
「私が受け入れられることはない」
とか、
そんな感じのことを
無意識のうちに考えているんだと思います。
私自身の表層意識は、
ジメジメしたことが厭なので、
ずっと「そういうもんだから、と淡々と拒絶する」
というスタンスをとってきてはいたのですが、
「怒り」が湧く時点で、
淡々と処理できてないんだと思います。
私がよく使う自己嫌悪のフレーズに、
「学習しねえなあ」
というものがあります。
この言葉、
小学生時代に何度も自分に言い聞かせていた言葉と一緒なんです。
子供のころにしょっちゅう考えていて、
中学生くらいの頃には、
未来の自分への私信にまで認めてありました。
これはもう、確実に、
まったく癒されていないインナーチャイルドです。
「いい加減、自己開示を戒めろ」と
自分に言い聞かせていた頃を振り返ると、
当時の感覚と、
今でも直面する「怒りが芽生える場面」で
相手(に映った誰か)に覚える嫌悪感が一致するんです。
言語化すると、
「自分のことしか考えてねえくせに、
子供騙しのままごとで
私を踏み台に使おうとすんじゃねえよ」
っていう感じですね。
「厚かましい」ということばが
ふと湧いて出てくることもあるのですが、
たぶんここに繋がってくると思います。
いま残っているバグは、
昔欲しくても手に入らなかった「酸っぱい葡萄」への態度。
なら、本当はどうしたかった?
ここを特定することが、
筒の純化にも繋がってくると期待しています。
どうやら今の私は、
特定の事象を、無意識のうちに
「そういうものだから」と拒絶する
バグが生じているらしいからです。
このバグを取り除けば、
私自身が賜りたいと願っている役割を
担える準備が整うと思います。
この4日間の観察と、
ここ2日ばかりの自己対話によって
ひとつの道筋が見えてきたという実感があります。
ここを土台にして、また模索を進めていこうと思います。
完成形を想定せず、
今ある形をそのままに、
然るべきように、流れに委ねていきます。
2024年5月22日 拝