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【辻政信氏の調査考察】2024.3.25『自衛中立』読解

辻氏が理想として唱えた「中立論」。

奇しくも、「中立」の文字が題にある著書が
地元の図書館に所蔵されていました。
この『自衛中立』を典拠に、
彼がどういう理想を掲げていたのかを読み解いていきます。

今回は、結論と思われる第六章を引用して、
彼の世界観を読み解いていこうと思います。

『自衛中立』

第六章 獨立日本の進路 一、自ら中立を守れ

十数年ぶりで、共に死線を越えてめぐり合った中國人の同志が、
開口一番私に洩したことは、
「日本の現在の政府は、中國の國民黨こくみんとうと全く同様だ。
 腐敗と、無能と、無気力と、無節操と、
 悉く蒋介石政府の敗因を受け継いでいるようだ。
 蒋個人は清廉であり國を愛し民族を愛したが、
 蒋を取巻くものは皆、阿諛迎合の輩であり、
 賢は野にありて口を塞ぎ耳を蔽い、
 奸は朝に蔓りて私利を図り、國を売った。
 一國の領導者に必要な態度は、
 量を以て忠言を容れ、身を以て恵まれざる民と共に生き、
 政治を利権と切り離し、側近を資本と結ばせない事だ。
 日本の現状は余りにもよく国府の醜状に似てゐる。
 それに乗ずる日共の戦略は、中共の戦略そのままである。
 中日が青年を駆り立てて反米運動をやり、
 貧民を煽てて破壊行動に奔らせた。
 日共は中共程巧妙ではないがその方向だけは似通っている。
 日本を頼って新しい中國の第三革命を結ぼうとして来たが、
 この現実には失望した。」
この友人の、この一言には反駁すべき言葉もなかった。

辻氏自身の目に映る日本も、
この中國人同志と同じ見解を
抱かざるを得ない状況だったと書かれています。

私がお経をあげながら、友人や先輩や部下の遺族を歴訪して
見たものは、例外なく國に見捨てられ、世間から見放されて
親子四、五人が、四畳半の破れ畳に或は六畳の板の間に、
僅かに雨露を凌ぎ辛じて餓死を免れてゐる惨めな姿である。

私が行脚して遺族を歴訪した時に一様に感じたことは、
「今度は金輪際、息子を兵隊にしたくありません」という
空気であった。日清、日露両役後の遺児達は子供心にも
父志を継いで軍人にと熱望したものである

同じ國民でありながら、この両極端の現実を、
政府もアメリカも冷静に判断すべきではなかろうか。
罪なき遺族に加えられた侮辱と冷遇とが
骨の髄に徹してゐるのであろう。

私はこの「遺児達は軍人にと熱望した」という文言を読んだ時、
「戦勝時代を懐かしんでいる」ようにも受け取れると気づき、
こういう部分を拾って「戦争の頃は良かったとでもいうのか」と
勘繰る人もあったのかもしれないと思いました。

辻氏の名前を知ってから、
最初に通覧したwikipediaで、
以下の情報を見たのを思い出したためです。

アメリカ国立公文書館で2005年から2006年に解禁された
CIAの機密文書によると、
CIAを始めとするアメリカの情報機関は戦後、辻らに接近したという。
しかし、辻を
「政治においても情報工作においても
 性格と経験のなさから無価値である」
機会があるならばためらいもせずに
 第三次世界大戦を起こすような男
」(1954年の文書)
と酷評している。

当時の私は、この表現から
「局所的な成功体験を重ねたことによって
 道義的な意味で倒錯した価値観を持ってしまった人」
を想像したのですが、今は違う見方をしています。

確かに
「(国を守るためならば)
 私は再びあの過酷な戦場に戻ることも厭わない」

と、胸を張って言いそうではあります。

また、「自衛中立」を目指して
突き進んでいたわけですから

「兄弟親族の縁もないような
 他所の国に頼らずとも、
 私たちには、まだ自分の国を守る手立てがある」

というようなことを
相対したアメリカの方にも
言っていたのかもしれません。

これを聞いたアメリカの方からすれば
敗戦に懲りず「まだまだ戦えるぞ」と言っている
ように見えたのかもしれない。

私は、
本書で書かれている警句の数々から
辻氏の主張はあくまで

「世界という舞台で見ると、
 日本という一つの国が
 今後も危機に晒される可能性は
 減ることなく、ずっと残っている。
 そんな状態で丸腰になるのは正気の沙汰ではない」

ということだと受け取っています。

辻氏は「国を守るために戦う」ことを
自分の役目と定めて
生きてらっしゃったのだと思います。

武力面で「国を守るため」になることを
請け負って、
自分の主体性を持って考え、実践することを
自分に課していたんだと思います。

終戦というのは、
「戦いが終わった」という意味ではない。
こちらの戦力が尽きて、
抵抗できなくなったというだけで
周辺世界が危険であることには何ら変わらない。
それが、辻氏の実感だったのではないでしょうか。

そして、この危険な世界で生き抜くために
協働しあう相手は、
「ビジネス」と言って
いつ裏切るともしれない他人ではなく
自分の手の及ばないところを補い合い、助け合える
”家族”であってほしい。

…ということかな、と私は想像します。

国連に参加して、日本の安全を保証して貰うことは
一方的な恩典として許される筈はない。
当然日本の新軍は国連の命令で朝鮮戦線に、
あるいは満州にシベリヤに使われるであろう。
それはまたしても亜細亜人が亜細亜人を撃たせられる
悲劇を繰り返すだけだ。
義務の履行を忘れて権利だけを得ようとする虫の好さは
ただ世界の侮笑を招くであろう。
我等は自らの家を自らの力で守り抜く気力を失った政治家と、
インテリに限りない軽蔑の念を抱かざるを得ない。

アメリカは日本の現状を正視して、
日本から何を期待すべきかの限度を決定すべく、
我等はそれと等価以上の恩恵を敢えて求めようとする程
卑劣ではない。朝鮮に投じつつある物的消耗だけで、
優に日本の自衛力を整備し得る筈だ。
とすれば米國は米國人の血を極東に流さずにすむこと
だけでも利益になる。
我等は日本人であるが故に日本人を愛する。
我等は亜細亜人なるが故に亜細亜人を愛する。
米人を敬愛することはその次に位する。
この民族感情を無視しては、
日本の民心を把握し得る道理はない。

これは余談になるかと思うのですが、
この本を借りられた先人の誰かに、
「一、傍線、書入、落書を止めませう。」
という制止を振り切るマルジナリアがいらしたようです。

傍線を引かれていた箇所は、
以下の檄文でした。

亜細亜人の亜細亜を防衛し、
落伍した亜細亜を興隆し、
敗れたる祖國を再建せんと欲する青年は蹶起けっきせよ。
民族の歴史にかつてなき大試練を
我らの時代、或等の双肩に課せられたことを無上の光栄と信じ、
莞爾としてその大任に当たらんとする青年は奮起せよ。
祖国は今まさに第三革命の前夜にある。

公共のものに書き込みをするのはやっちゃダメですが、
辻氏の言葉に高揚し、奮起する若者も多くいたことと思います。

天は自ら助くものを助く。
サミュエルスマイルズの『自助論』が
幕末期から愛読されていた日本ですから、
こういう心がけへの共感は、大きかったのではないでしょうか。

第六章 獨立日本の進路 二、自衛中立のための軍備

「自衛中立のための軍備」の項では、
当時巷で騒がれていた「再軍備」についての議論をまとめ、
問答的な形式で辻氏の意見が述べられていました。

辻氏の論旨を総まとめにした文章を抽出してみると、
以下の通りです。

消極的に手を拱いて、無抵抗で中立と安全が保たれる程、
今の世界の強国は人道的ではありません。
私たちは…この国を、この民族を護り抜きたい
と考えていますが、
海を渡って他国に攻め込んだり、他国の防楯となって
日本人の血を流そうとは、夢にも考えてはいません。

世界の人類が、まだ心から戦争を嫌うまでには至っていませんが、
この次の戦争で…大悲劇を直接体験して始めて、
世界の人類が懸値かけねなしに戦争を放棄するに至るでしょう。
私たちはそれを信じています。
ですから、再軍備の問題に対しても、
国力に相応した枠でやるべきだと主張した次第です。

この軍備は、第三次大戦が終わるまでの間、
直接日本を侵されない用心に持つべき
暫定的な保険であります。
人類を挙げて戦争放棄を決意する日は、
そう遠くはありますまい。

そして、最後には再び、扉文が添えられていました。

米ソ戦は日本の為でもなく亜細亜の為でもない。
我等は亜細亜と結んで其の圏外に立たねばならぬ。
其の道は険しいが光明への道である。
天は自ら衞るものを衞るであろう。

辻氏は、本書の中で

「道義と誠実」以外に、国際問題を解決する途がない

という表現をしていました。

それが辻氏の信念なんだろうと思います。

次回は、『亜細亜の共感』をテキストとして、
東亜連盟を提唱する一員となった経緯を
探ってみたいと思います。



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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。