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【流記屋の旅中記】純化と巡縁の記録【2024年6月振り返り】

6月は、今後の方針が一つ定まった月になりました。

ここしばらく感じていた
脅威、不安、焦燥、嫌悪から、

どうすれば安心できていたか、
自分を縛りつけている呪詛となっている記憶、
「ほんとうはどうなりたいか」
などの、
自分の感受から出発した方向性が見えてきたように思っています。

本稿は、五月から始めた流記の振り返りです。

ここからは、
六月につぶやいた
ことばの切れ端を振り返っていこうと思います。


2024年6月1日

月初めに考えていたことは、
「安心できる時間とスペースをつくる」ということと、
「自分の体癖を把握する」
「身体をゆるめてストレスを力に変える」
と言った身体の使い方への興味でした。

如実に「不愉快」を感じる場所があったおかげで、
これまでの人生ですっかり狎れきっていた
物事への対処法や、
自分の感受の仕方、
ほんとうはどういう場所に居たいか
について考えることができました。

2024年6月2日

身体感覚について教えを乞える場所は、
ネットで検索して当てはつけたものの
先方との都合が合わず、
6月中は、伺うことが出来ずじまいになりました。
7月に入って予約がとれたので、行ってみようと思います。

2024年6月3日

「なぜ、同じ過ちを繰り返すのか」
この問題は、ここしばらくの私にとって、
割と笑えない問題となりました。

2024年6月4日

この日は、友人を訪ねて京都にお伺いしました。
友人から一冊の本を託され、
以降、
この本が、身のうちに起こる衝動の起点にもなりました。


友人と、彼女を取り巻く方たちとの交流の中で
「食えなんだら食うな」ということばが頭の中に浮かび、
ここしばらくの自分を省みることになりました。

以下はアナログノートに書き留めた所感↓


自分が譲れないものは何かを
はっきりさせて、
見えてきたものにしたがって選ぶ。
そうしないと、また沼地に引き摺り込まれる。

私はこれからの人生の、
なるべく多くの割合を
自分が誠実で、真摯でいられていると感じて生きたい。
自分の生命の力を十全に発揮して生きたい。
誤魔化しや、なあなあにしたままで
手を打たずに耐えるような、
時が過ぎ去るのを待つような時間は、極力無くしたい。

こう思っている。
こう思って、
すでに一度社会のレールから飛び出したにもかかわらず、
生き方の癖をそのまま引き継いでいることを自覚することが、
今でも起こる。

2024年6月5日

この日は京都に一泊し、
朝、貴船神社に参拝して帰路に着きました。

「貴船」というのは、
「気生根」とも書くことが出来る。

「気が生ずる根」というのに、強く惹かれました。

今の私に引っかかるワードの一つとして、
「気」というのがあります。

友人から託された本にはこのようにありました。

やる気があればやれることも、
気がないと
自分では一生懸命やっているつもりでもミスをする。

聞く気があれば相手の身になって聞けるが、
気がないと何を言われても耳に入らない。

気というものは、
人間を動かす力、行動の基になっている。

しかしだからと言って、気というものを、
心の一部だとか、
体の一部だとか考えるわけにはゆかない。

気を集めると体のはたらきが活発になってゆき、
元気が出てくるが、
気が抜けるとやることもやれなくなってしまう。

やらなくてはならないと思いながらやれないのは、
気がない場合だ。

やる気があれば自ずから力も出てくる。
気は人間の体を動かし、人間の集まりである社会をも動かしてゆく



「気が起こらない」という状態には、
ものすごく心当たりがありました。

思い返せばいつからかはわからないのですが、
実家にいた時は確実に、
「追い詰められたら火事場の馬鹿力で起こるやろ」
という粗雑極まる判断で、
自分自身を過酷な状況に追い込もうとしていた
と思います。

「気を起こすには、追い詰める荒療治が即効性がある」
という先入観があるのかも、
だから不調和の中に身を投じようとするのかも…

というところまで考えて、

なぜ、こういう選択をしがちなのか、

「自分の感覚を信じられない」という
長年の悩みと通じるところがあるかもしれない、

その大元を辿ると、
私は自分のルーツに対して、長年、恥と不信をもって生きてきた


ということが思い出されました。


これを記している7月2日に一つ思い当たったのですが、

「自分の感覚が信じられない」というのは、
幼少期に「自分の感覚」で感じた「辛」「苦」「窮」を
「大したことがない」「声を上げるほどのことではない」
「死んでいないのだから、なんでもないことだった」
という結論で締め括っていたこととも関連があるかもしれません。

…もう一つ、自ら顧みて悄然とする文があります。

出せば出すほど、よく出るようになる
惜しむ心が生じると、出なくなる

この一文を読んだ時、
ぐっさり刺さりました。
「今の私は、惜しんでいる」と感じました。

ただ、これまでやっていた「不惜」は、
自分の子供心を置き去りにして
「美しくないから」という理由で
「しよう」と決めて始めたことでした。

今度こそは、
自分の心身を置き去りにせず、
心身から発するものに「不惜」をやりたい
という思いがあります。

2024年6月6日

5日に

「今の自分は、
 やるべきことはやったのか
 やるべきことをしているか」

という自問自答をし、

「やってねえな」と項垂れた翌日、
ひとつの結論を出しました。

それは、

全生で生きる。
そのために、
身体が守りに入るような環境は早々に去る。
近々手を打つ。

というものでした。
(…雇用契約の関係で、現実化することは叶いませんでしたが)

ジメジメして息していては全生はできない。
健康に生きる為に、愉快ほど大切なものはない。
僅かな利害や面子の為、その愉快を失って生きている人は不幸せである。
しかも自分の愉快を失っているばかりでなく、
他人の愉快まで奪ってしまっていることが多い。
これは悪である。
自分の愉快を大切にする人は、
他人の愉快も大切にして、
傷つけないことを心がけよう。
これが全生の道だ。


私はこのとき、
今いる場所で自分にできる
「他人の愉快を大切にする」方法は、
なるべくその場に関与せず、ただ去ること
だと思ったのですが、

この翌日から始まった数日間で、
「不愉快」の現場に直面したり、
派遣元の担当の方や
派遣先の担当の方とお話ししたりするうちに

気力を使い果たしたようで、
途中で辞められても困る先方の論理に
素直にうべなうことになり、
「任期満了までは黙って手を動かす」かたちに落ち着きました。
(気が雲散霧消している為、いまも機能面に自信はありません)

2024年6月7日

この日は、
この「不愉快」に決着をつけよう奮起した日です。
そして、それまでとは一転した先方の様子に違和感を感じ、
ビビって引っ込んだ日です(悔)

ただ、その日のうちに再び「動かねば」という気が起こりました。

夕方の、特に不快を感じる場所で、
懐かしい身体のアラームに気づいたので、
「ここは去る場所」と再確認することになりました。

2024年6月8日

この日は通常通りシフトにしたがってはたらきつつ、
中抜け時に派遣元に連絡を入れました。
担当の方がお休みでいらっしゃらなかったので、
週明けに折り返しの電話を待つことになりました。

自分の人生をどこに使うか、
自分の感覚で選んでいかねば
忿懣の沼に再び絡めとられる

というのが、当時の私の焦りだったと思います。

2024年6月9日

「自分が、どういう状態であれば心地よいのか」
を、不愉快視点から考えた1日でした。

この日のアナログノートには、
ものすごく排他的な、
こどものような文言が散見されました。

自分の中には七人の下位自己がいる…
みたいな話を十数年前に本で読んだことがあるのですが、
そのうちの、
もっとも原始的な、危機回避の下位自己「夜警」というのを
自分自身の中にいるものと照らし合わせた当初、
私は「これは『夜警』というより『傷ついた子ども』だな」
とメモに書き留めていたことを思い出しました。

いまだに持て余してるんですよね、
この子。

いつだったかに
ティク・ナット・ハン著の
『和解 インナーチャイルドの癒し方』
『恐れ 心の嵐を乗り越える方法』
をamazonでポチって手元には置いているのですが、
読むにしても、ちょっとばかし時間を要しそうです。

2024年6月10日

この日は派遣元の担当の方と話ができた日です。

派遣先の方々と私自身の双方が不愉快を感じている(と思われる)現状、
任期満了まで粘る方が悪影響なんじゃないか
という相談をしました。

ちなみに、ちょっと気になる誤作動として、
9日10日と連続して、
「る」を「す」と書き間違えています。
だからなんだって話ですが。

2024年6月11日

この日は派遣元から、
前日の相談について対応した結果が連絡されました。
(なんともないから任期満了まで続けて、という内容です)


感受の蓋が開いた以上、
あそこでウマクヤッテイク気が、
完全に浮いている。

というメモが残っています。


この日の決意として、
「自分で自分の世界をつくる」(具体的には無想定)
「人に使われない生き方を選ぶ」
ということを決めました。

このときの実感としては、
今の自分は「お金を払って好きなことをする」止まりになっている。
noteに関してもその通りで、月500円払いながら記事を書いている。
(noteプレミアムで予約投稿とかできるようになるんです)

ここから、

好きなことをしてお金を手に入れる。
会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。
安心して、やりたいことをして、
「やりたい」エネルギーで生きていく

方に進んで行きたい。

…と方針を明確化しました。
(具体的には無想定でしたが)

2024年6月12日

この日は、
再び友人とオンラインでお話しする機会を得ました。
5月15日に再会し、
この間、私にたくさんの必要なことを教えてくれた
土星さんのような方です。

いつもは息抜きにもなっていた淡路散歩ですが、
この日は不思議と息が詰まる感覚があって、
早々に切り上げました。

誰もいない道をひとりでぶらぶら歩いていると、
たびたび口をついて出る歌があります。
「蛍の光」「故郷」「この道」「お風呂が沸きました」…
この日は「蛍の光」でした。

2024年6月13日

友人との対話を経た翌日には、
これから集注していくことが見えてきたと感じました。

5月15日からフォーカスしていた体感を再度見直して、
ゆずれないものを明確化し、
それにしたがって進む方向を選んでいこうと
ノートと向き合ったのですが、

次の満月が夏至の翌日で、
さらには2024年初めの新月と同じ山羊座で迎える
ということに気づいたので、
年初に定めた「山羊座ステージ」の
振り返りのタイミングだと思い、

さらに遡って1月11日からを振り返ることにしました。

結果として、日を跨ぎました。

2024年6月14日

過去のノートの確認に没頭して夜を明かし、
その熱のままに、
これまで参拝してきた神社を巡って
結果報告をしてまわりました。

当時引っかかっていたのは、
役に立っていると思えないのに
結局飛び出すわけにもいかずに
身体を残しているお宿での身の振り方…

ノートのメモには、

もう、ちょっと間抜けな小人さんくらいに思ってもらった方が
イサカイないと思う。
1.6m級の奇行種やと思っていただいて

と書き留めてあります。

西洋あたりにいるじゃないですか、
ひとんちに住み着く働き者のブラウニーみたいなやつ。
あれの劣化版と思えばあと2ヶ月くらいは目を瞑れんじゃないか
ということを、先方の立場を想像して、考えていました。

2024年6月15日

この日、洗い場のシフトを終えた帰り道、
前職の時に、気持ち悪い思いをした人間関係の相手が
ニヤケ顔で立っているイメージがふってきて、
あんまり腹が立ったので不動明王のご真言を唱えながら
相手を八つ裂きにする様子を念じて帰りました。

自分のなかの問題がまったく解決できていないことに
連日直面している数ヶ月を過ごしています。

2024年6月16日

この日は父の日の花束と称して、
生きてます動画を家族LINEに投げました。

私の発信している内容を見て、
「治国平天下の実践をされている方と見受けます」
というメッセージをくださった方がいたのですが、

「日々己のままならなさに直面しています」
としか返せませんでした。

人を力にしようとするな。
己を見つめよ。
自分自身がどう生きたいかを明らかにする


というのが、この日のメモ書きにあります。

「期待に応える」ということができない現状、
それでも進むしかないなら、何を軸に据えるか。
それが、「自分が、どうしたいか」。

他者からの期待や、
それに応えたあとの功績を思うのは違う
と思った。

いま自分に必要なことは、
今の自分が一番わかっている。
だから、その声を聴こうと思う。

2024年6月17日

この日は、シフト消化をやりながら
「ああ、もう無理だな」
と感じた日でした。
「このままだと弱体化していく一方」
とも思いました。
ここから「飛び出し衝動」の第二波が来ます。

この時に書き留めていた「厭なもの」は、
「男の姑息な立ち回りを見ること」
社会人としてやってきた過去の記憶からくる、
消化できていない蟠りが浮き上がってきた日になりました。
(現状とは無関係に、
そういう記憶が思い出された、というだけです。)

いっそその都度叩き潰していれば平気でいられたか、
とも思いましたが、
それをしようという気が起きなかったから今があるんですよね。


2024年6月18日

この日の私は宿を飛び出す気満々でした。
辞める時は最低限二週間前までに連絡するのが定石と言うから、
二週間後くらいに短縮する、みたいなメモも残っています。

派遣元に連絡するために、
現場(派遣先)での先方の認識どうなってるんだろう
と確認しようと、
担当の方にいろいろお伺いしたのですが、
先方の認識ではさほどの問題でもなかったようで、
任期満了まで続けるのがベストということを伝えられました。

私からお伺いした、
「私自身が職場でやっていけていないのでは」
という仕事面や人間関係の面での機能不全状態については、
「特定の個人との間に起こった問題」にカテゴライズされたようで、
「その方との関わりが起こるシフトをなくす」
という解決方法を提示してくださいました。

ここで、「辞める」をゴリ押しすることに
若干の迷いが生じました。

2024年6月19日


派遣元に連絡をする際、
「現状についての相談」というかたちをとった時点で、
この「辞める」は実行不可能になっていたのかもしれません。

結局、担当の方に、
「長居無用と感じた根拠となる出来事」を思い出せる限り話して、

「ただ、もともと“先方にとってもご迷惑だろうから”
 と思ってご相談したものですから、
 違うと言われると迷ってしまって…
 お伝えしたようなことがあっても、
 続ける方が良いんでしょうか」

という質問をして、
先方からの「そうですね」に従うという、
竜頭蛇尾も甚だしい結果になりました。

ただ、その後
その場に居るのが苦痛になっていた職場のシフトから
抜いていただけたので、
それはとてもありがたかったです。

2024年6月20日

結局「いま辞める」は実現が叶わずじまいでしたが、
9月1日以降のことは決意が固まりました。
いまここから、しかるべき場所に落ち着くために
必要なことをしようと決めました。

2024年6月21日


2024年6月22日


2024年6月23日



2024年6月24日

次の新月、満月の流れが、
ちょうど自分のドラゴンテイルからドラゴンヘッドに向かうようだったので、
これは何かの思召しだと思い、
これまでのパターンから脱却しようと
問い直しを始めました。

そして立ち現れたのが、「お金」との付き合いかた…。

「したいこと」をするために、
「したくないこと」にこの身体と人生を切り売りする
という方法が、身に染み付いてしまっているな
と苦々しく思いました。

2024年6月25日


2024年6月26日

行動できそうなところから着手しようと思い、

軽率に購入しちゃうAmazonや、
不正利用にビビることに貴重な人生を浪費しかねないクレジットカード
ちょっとしたことで苛立ちを感じがちな配達会社のメンバー登録

を手放せれば、何か変わるんじゃないか…という発想から
「本当にこれ、要る?」という問い直しをはじめたのですが、
現在の使用状況をみて、「まだ、手放せない」という結論に至りました…

なぜ、「まだ、手放せない」のか…
それは、これらのサービスが
「人と関係性を築かずに生活する」ことを支えていたからです。

2024年6月27日

私は3年ほど前に、前職を退いたときに
人間不信を患って今でも若干拗らせています。

…と、人への強烈な警戒心が湧いた時には、
こういうことにして
前職時代の出来事を悪者にして濁してきているのですが、
根っこはもうちょっと深いところにありそうです。

ともあれ、こういう人を避けたい自分を見つめたとき、
私は、「人との助け合い」によって得られるものを、
その輪に入らない代わりに、お金を支払うことで
恩恵にあやかっているのかもな、とおもいました。

2024年6月28日


2024年6月29日

本当はもうちょっと、
生息可能領域が広くあって欲しかったんですけど、
3年前に「もう無理」と感じた時点で、
「会社」というものに対応できなくなっていたのかもしれません。

「(人の集まる職場で働くことは)もうしない」と決めることが、
可動域を狭める気がして窮屈だったから、
三度目の正直で確認しようとしたけれども、
その結果は、一番最初の直感が正しいと再確認しただけだった。

…とはいえ、これらの出来事を通して
自分の「境界線の穴」問題に気づけたのは結構大きな収穫です。
これまでに、「追いやられた」と感じる出来事は多々ありました。
それは「群がってくる人」によって、だと感じてきました。
それが、(よく知らない)人を避ける理由にもなっていました。

群がる人が何を嗅ぎ取ってくるのか、
それが「穴」だとしたら、

ここを修復すれば、また新たな世界が見えるかもしれない。

2024年6月30日

この一ヶ月は、
心地よさも不愉快さも感じることができました。
起こる出来事すべてが今の私に必要なことだったと思えます。

7月も、これらの出来事を糧に進んで行こうと思います。

2024年7月6日 拝

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