心照古教〜『大学』を考える〜【五】
「調和」を"絶対的な善"の境地と考えてみる
至善に止するにあり
この「絶対的な善」という表現に、ちょっとビビりました。
なぜなら、
善悪を断定するのは結構センシティブだと思っているからです。
これまでに出会った、善悪を語る人の多くは、
自分が優位に立つルールを「正しい」ものとして
それを他者にも適用させようとしているようでしたし、
「自分に都合の良いこと」を「正しいこと」と
錯覚しているように見える人に会う機会も多かったからです。
競争社会の「善悪」と、
和をもって尊しとなす社会の「善悪」は違うと思います。
その上で、
私は「調和」を「善」と考えることにします。
修行時代最後の職場を離れたのは、
ここでは調和が図れないと感じ取ったから
とも言えます。
上司にお小言をいただいた時分には、
割と深刻に追い詰められていたので、
私自身の「譲れないもの」が浮き彫りになっていたんです。
そして、それを自覚した上で
「この会社と“一体化”するために、
自分の譲れないものの方を無くす」
という判断をしたくないと思った。
この時のこれが、
「明徳」で「私のパズルピースの形」だ
と思った面もあるんです。
ここには合わないとわかったから、次に進める
と感じた。
「自分だけに備わった能力を特定する」という目標を掲げて
仕事の研究をしてきた成果が、ここで出たと思いました。
「この分野なら常にそつなくこなせる」とか
そういう表面的なものじゃなくて、
無理難題にがっぷり四つで取り組んだ時に現れる、
私自身の弱点や、
それを補うための創意工夫、
回り道で選んだ選択と
そのプロセス全てが
特有の力になっているんじゃないか
というのが、
実際やってみて感じた
「備わった能力」でした。
だから、この形で調和を生み出せる環境を見つけるのが
次のステージだと思った。
「大人」には、「家大人」「会社大人」の他にも、
国と我とが一体だと感じる「国大人」がいます。
幕末に奔走した志士の皆さんはこの次元にいると思います。
さらに、スケールを広げていくと
世界と我とが一体だと感じる「世界大人」もいる。
ここで、一つ思い至った本の一節があります。
自分の周辺世界が、世界そのものというスタンスは、
自分のいる片隅を照らすために全霊をかけることと同義かもしれません。
私はこれまで、
家にも会社にも居場所を見出すことが
できずにいました。
家なき子よろしく自分の居場所を探し回って
うろうろしていたくらいなので、
「国」や「世界」に親心を持って
いられているかと問われれば、答えは否です。
でも、「会社大人」になろうともがいて自分の形を知り、
その環境を拒絶して、
敷かれていたレールから飛び出したことで
全く違う社会があることも知りました。
旅を重ねる中で、出会った方から
「自分が居たいと思う場所をつくればいい」
という言葉をいただいたとき、
自分が一体化するものを、一から作る
というあり方が目の前に来たと思いました。