心照古教〜『大学』を考える〜【二一】
「その家を斉うるには其身を修むるにあり」とは
本文
訳文(我流)
八条目にある
「其の家を斉うるには、その身を修むるに在り」とは、
例えば、
人は何かに対して「特に親しみ愛する」ことがあると、
その思いに偏って正常さを失う。
行き過ぎると贔屓の引き倒しになる。
何かに対して「特に畏れ敬う」ことがあると、
その思いに偏って正常さを失う。
この人が言うことなのだから「正しい」と
うっかり思ってしまうこともある。
何かに対して「特に哀しみ憐れむ」ことがあると、
その思いに偏って正常さを失う。
何かに対して「驕り怠る」ことがあると、
その思いに偏って正常さを失う。
「この人はいい人だ」「こいつは悪いやつだ」と印象が
どちらかに偏っていることを無自覚のまま判断している時は、
「いい人」の美点ばかりが目につくし、
「悪いやつ」の欠点ばかりが目につく。
だから、
好きな対象の悪いところも知っている人
憎んでいる相手の美点を見つけられる人
は世の中にあって貴重な存在だ。
諺にこう言うのがある。
「親は我が子の悪い行いを知らない。
農夫は自分の作った苗が他に比べて大きく育っているのを知らない。」
これを、
「まず自分の身が修まらなければ、その家を斉えることはできない」
と言う。
思うところ
私自身、おおいに「偏って」生きてきました。
二十歳くらいの時に一度その事実に気づいて、
というメモを残しているのですが
この気づきがあったから、
古い教えに自分を照らすことを試みられているとも思います。
「客観的に見る」ということ自体、
自分自身を客観的に観察した経験がある人
にしかできないんじゃないかと思います。
周りからの意見を大事にしていた時の話なんですが、
職場でよくアドバイスをくれる人がいたんです。
その人はあまり仕事をしようとしない人で、
他者の仕事の仕方にアドバイスすることで
職場での地位を確保しようとしているように見えました。
私は「主観でしかものが見られないから」と、
周りから聞いた意見に対して
なるべく一考する時間をとっていたのですが、
彼女からのアドバイスはほとんど、
周りへの批判だったんですよね。
そのうち、
これって「客観」じゃなくて
「部外者の主観」じゃないか?
っていう疑問が湧いてきました。
「客観的に見て」という表現に見合った言葉を言えるのって
自分の状況を精査し終えた「本人」だけな気がします。
「本人」以外なら、その人に親心を持てている人が
あえて距離を置いて状況を見たうえで発した言葉であってほしい。
…こういう発想自体が、
幼少期から続けていた生き方の中で感じた、
表面上で決めつけられて「そういうことにされた」
っていう蟠りを根に持っているからこそ
出てくるものなのかもしれません。
私、あってほしいって言ってる。
これも「辟」に該当するのかも。
ちょっと脱線しますけど、
自分が気持ちよくなりたいだけの通りすがりの部外者に、
そいつの一時的な慰めのためにお手軽に使われるのが
業腹なんですよね。
だからつい、
「口を開くな息を止めてここから去れ」って思っちゃうんです。
自分の感じ方を観察することの大切さが身に沁みます。