「なくなってしまった中にあること」を踊る人
今日、劇場で観た田中泯のこの映画は、どうしてももう一度、観なくてはいけない。
120分の映像の中で、いったいどれくらい受容できたのだろう。
感じる前にすり抜けていったこと、
ディテールを掴む前に取りこぼしてしまったこと、
それが、とてもあるような気がする。
だから、つるっとした感覚がしているのに忘れがたいという感想を持ったのなら、それは豊穣な世界が隠れているサイン。
私の中に感想としての言葉が浮上しないのは、情報量が多すぎてこちらの受容態勢が間に合っていないだけのこと。
それに今日は久しぶりの銀座・有楽町でしたので、柔らかものの着物を着て行ったのですが、そのモードがうまくシンクロしなかったせいもあるかもしれない。
こういう時は、もう一回観るに限ります。
それも、観るモードを変えて。
次回は、黒のタートルネックのセーターに顔を埋めながら、観てみたい。なんとなくそう思うのです。「目」に感覚を集中させて、身体は緩んでいるような服で。
そして、今時点で印象に残っているのが、場を踊る。場と踊る。
「場」というのは現在進行の姿だけでなく、遠い過去に刻まれた場の「面影」も感じ取って、その面影を身体を使って表面化させるということ。そういえば『和泉式部集』にこんな歌がありました。
あはれなる事をいふには心にもあらで絶えたる中にぞありける
和泉式部『和泉式部集』354
(あはれなる事を、言葉にするのでしたら、もう心の中にもなくなってしまって、もちろん現実の場にも絶えてしまった中にあるんです。)
現実にも人の心にもなくなってしまった中にあることを、和泉式部は歌(言葉)で表現するのですが、田中泯は踊りで表現している。
「絶えたる中にぞありける」すなわち「なくなってしまった中にある」のが「面影」なのでしょうか
それを、もう一回観て確かめたい。
田中泯が感じ取った面影に対して田中泯の身体が共振した踊り。そしてそれを観た私の中にその面影を再生してみたい。
それからもう一つ。ユーラシア大陸の極西の海岸に打ち寄せる波が、日本の海の波よりも、心なしか急(せ)いているように感じたことも。
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