神保町で二冊の本から、古代とコンピュータへ
久しぶりに神保町へ行きました。
プラプラ歩いていると、もう5年ぐらい前に文庫の『折口信夫全集 32巻』を手に入れた古本屋さんに思いがけず再会。神保町は素敵な珈琲屋さんが隠れている裏道があったり、ウロウロするのが楽しいです。でもいつも古本屋さんの名前をちゃんと覚えていないので、見覚えがあるのに同じ道を辿れない。そんな印象があります。
行きつ戻りつしながら、同じ古書店で手に入れた二冊。
『魔術から数学へ』は10年前に丸の内の書店で働いていた時に、手ぶらの大学生の男の子が、この本をフラリと買っていったのが印象に残っていて、手に取りました。著者の 森 毅(もりつよし)という数学者のお名前は、なぜかしら記憶にあって(たぶん受験生の頃に数学の人としてテレビで見たのかもしれないです)、パラパラとめくってみたら
科学と神学が渾然一体となっていた時代
という見出しがありました。
『魔術から数学へ』森 毅 (講談社学術文庫)
「数学と魔術が同居していた時代って、どんなのだろう」と思うと、興味がむくむく。ガリレオやコペルニクスの伝記などから、科学にしようとすることは神様を否定することになるから大変だったという思い込みがありますが、この本からは、当時生きていた人の肌感覚みたいなものに触れられそうな予感がします。
もしかしたら今現在のAIの登場と浸透の過程とも似ている状況かもしれません。
10年前には、この本に対してそんな風には思わなかったのに、時間差で本と再び出会えるのも神保町のいいところ。
こうして私の中で「移行」というテーマが立ち上がって、そんな気分を連れたまま同じ棚を見ていたら、もう一冊、同じ頃気になっていたのに手に入れていなかったタイトルを発見。
『桃太郎の母』石田英一郎 (講談社学術文庫)
棚から取り出すと、表紙の感じが記憶と違う。そっか、これは1992年の発行でした。記憶にあったのは2007年の新訂版の表紙だったようです。
そしてこちらは、太古の「女(母)と子」のことが書かれているのですが、「移行」というテーマの上に置くと、母系から父系への移り変わりの狭間が見えそうな予感。
「桃太郎」のお話にはお母さんは登場しません。ご存知のように桃太郎は川に流れてきた桃の中から生まれましたので、もしかしたらお母さんは桃太郎を川に流したのでしょうか。そうだとしたら、これってイザナミとイザナギの最初の子供のヒルコの境遇に似ています。
こんな風に、魔術も母子信仰も遠い古のこととして語られますが、少し前の「複雑系」や「カオス」といった言葉を耳にして以降、量子コンピュータやアナロジー思考への注目、再魔術化や非線形、そしてトランスフォーメーション(相転移)という言葉が日常でも目にしたり聞かれるようになってきていますので、どうも大きな流れは古代へ回帰しているのかもしれません。ついでに、なんとなくざっくり分けると、男の思考は線形的で、女は非線形に思考しがち。
<これまでの歴史での変化の方向>
母系から父系
魔術から数学(魔術から科学)
アナロジカルからロジカル
非線形から線形
<このごろよく耳にする言葉>
量子コンピュータ
非線形
アナロジー
再魔術
トランスフォーメーション(相転移)
夫婦別姓
こうした古代への回帰は、おそらくコンピューターも関係しているように思う。
インターネットが一般的になりはじめた1995年。会社で「電子メール」を初めて送信した時に、電話でもなくファックスでもなく手紙でもないその感覚に、「テレパシーみたい」と思ったのでした。
だって、言葉を発しなくても、物理的な紙に文字を書かなくても、暗黙のうちに伝わる感じ。まるで「念」を送るよう。それから発信したら取り消せないところもテレパシーみたいで。
今放送中の大河ドラマで語られているように、古代中世の人々は「夢」で聞いた人の言葉は「本当」にその人が言っていると思っていました。
それはきっと、壬生忠岑のこの和歌のように、空間を移動できる「魂」の存在を感じていたから。
わが玉を 君が心に 入れかへて 思ふとだににも 知らせてしがな(壬生忠岑)
「わが玉」は「わたしの魂」。
壬生忠岑は紀貫之とともに「古今和歌集」を編纂したメンバーの一人。この時代の人々は、心の中に魂があって、魂は持ち主の身体を離れてあちこち行くことができると考えていたのでしょう。この和歌で壬生忠岑は、自分の魂を君(相手)の心の中に入れ替えて、その自分の魂に「あなたを想っています」と伝えてもらえたらと言っています。
『源氏物語』の六条御息所の生霊も同じく、和泉式部の百人一首のこの和歌のように、たま(魂)は、物を思うと我が身からあくがれ出づるのです。
物思へば 沢の蛍もわが身より あくがれ出づる たまかとぞ見る(和泉式部)
構図として、心はメールボックスで、メールを運ぶメッセンジャーが魂なのかも。
それ以外にもコンピュータの世界のこととして、ノイマン型コンピュータを実際に機械的に動かす「機械語」では、とても細かく分けられた指示が飛び交います。例えば2×3の計算は0+2+2+2に分解されますし、Excelで最大値を取り出す関数も裏ではかなり多くの手順をこなしています。
またコンピュータを動かすためには、人の言語に近いプログラム言語を「コンパイル」することが必要なのですが、compile とは「集めて編集する」という意味で、単純な動作の命令(機械語)を集めて順番に並べて、プログラム言語で書かれた処理が正しく実行されるようにすることなのですね。
一方、人々の使う言葉の面では、時代が下るほど概念も言葉も複合的に集約された意味を含むようになりますが、古代においては、例えば万葉集の長歌では、景色やイメージやその時の感情の機微を伝えるために、これでもかというぐらいに言葉をかさねてゆきます。
つまり「悲しかった」「嬉しかった」という感情を、もっと具体的に共有できる言葉ばかりをコンパイルして(集めて)表現しています。
『万葉集(三)』中西進(講談社文庫) より
そんなことから私の中では、メッセンジャーになる魂やコンパイルされている万葉集とか、コンピュータと古代はわりと似ているんです。
『万葉集(全四巻)』中西進(講談社文庫)
それと、量子コンピュータの計算方法の核になっている量子の「もつれ」の状態と、女の「こじらせ」も、状況的には似ているなぁと思っています。
*