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古代祭祀の2系統(斎部と中臣)

自分の興味は、一度に深追いせず、焦らない方がいいです。
(深追いしすぎると、広がらないうちに飽きてしまうんです)
そんな風に、今のこの歳になってじんわり思います。


2010年ごろ購入したこの本は、なんどもなんども違うテーマで手に取っては、また本棚に仕舞って。を繰り返しています。

『古語拾遺』斎部広成 (岩波文庫)


岩波文庫の『古語拾遺』。
買ったのは2010年ごろ。その時は、銅鐸の「鐸」のことが書いてある場所が知りたくて、探して、見つけたり。

天目一箇神をして雑の刀・斧及鉄の鐸〔古語に、佐那伎といふ。〕を作らしむ。

『古語拾遺』斎部広成撰 岩波文庫

だからずいぶん経ってから、ひょんなきっかけで、こないだの「猪鹿蝶」の関係に気がつくことができたのかもしれないです。


この『古語拾遺』は平安京に遷都してしばらくたった大同2年(807年)に斎部氏の老翁、斎部広成が平城天皇に撰上したものです。

そしてここには、古より斎部氏と中臣氏が携わってきた祭祀について、いつの間にか祭祀のメインが中臣氏に集中してしまい、斎部氏がサブ的になってしまった現状を憤懣して、「そもそも」が語られています。

この『古語拾遺』や『記紀』によると、斎部氏と中臣氏の祖先は、高天原の時代から祭祀を担当する2系統として共に活躍していました。

 斎部氏の祖先は、天太玉命(あめのふとたまのみこと)。
 中臣氏の祖先は、天児屋命(あまのこやねのみこと)。

そしてこの二柱は、天地開闢のとき最初に高天原に生まれた三柱の神のそれぞれの子たちです。
・天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・・・子 → 天太玉命(斎部氏)
・神産霊神(かみむすひのかみ)  ・・・子 → 天児屋命(中臣氏)

『記紀』に登場する神さまたちは、ほぼこの高皇産霊神と神産霊神のどちらかの系統にはまってゆくようなのです。でも別に対立的ではないんですね。

そもそも、天太玉命が「天の岩戸」のプロジェクトの実行部隊のリーダーとして諸部の神々を率いたし(天児屋命は相副に祈祷のみ)、その後も長く宮殿の守衛をはじめ宮殿内の設えやメンテナンスを中心的に担ってきました。

では、中臣氏が担っていた祭祀はどんな部分だったのだろう。と思っていましたが、この疑問はすぐにはわからなさそうだったので、放っておいたのです。


それが先日、この疑問とは関係なく、常陸国と藤原氏の関係を知りたくて、図書館所蔵本の検索でこの本を見つけました。

『中臣氏 古代氏族の研究⑤』宝賀寿男(青垣出版)

常陸国と藤原氏の関係について決定的な言及はありませんでしたが、藤原氏の出自の中臣氏は、もともと「卜部(うらべ)」という名の氏族であったことを発見。

ああ、中臣と斎部は、「卜部」と「忌部」とで、対になっている!
(「斎部(いんべ)」はもともとは「忌部」と表記されていました)


「卜部」は「占部」で、太占をする職能氏族。
太占(ふとまに)は鹿の肩胛骨を灼いて吉凶を判断する占いのこと。

「忌部」は「斎部」で、穢れを忌む職能氏族。
穢れを忌むとは、神聖なことを従事して祓い清めること。

「卜部」は、予兆を判断する、いわば未来担当。
「忌部」は、生じた穢れをなくす、いわば現在担当。

穢れがある状態では物事がうごきませんから、まず最初に祓い清めの「忌部」あって、その上で「卜部」であったのが、いろいろ制度が整うにつれて、清められた状態が「あたりまえ化」して、だんだんと相対的に関係が逆転したのかもしれません。

今でも、なにかと未来や夢、予測や予想のほうが、人々の関心や注目を集めますので、こうなる流れは仕方がないのかなぁとは思います。

企業でも、なんとなく「斎」系の総務部よりも「占」系の企画部とかのほうが花形。
なんといっても、財(fortune)を生む話をするのですから。

けれど、今の機動力を上げたいのなら、「斎」のことを大事にしたら、わりと容易く「今」が快適になることも、この頃すごく実感することなのです。

福も英語では「fortune」でした。


この2系統の両方がバランスよくあるのが大事みたいです。
デュアルで。


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