攝津国池田鄕の人 〜呉春と富永仲基
大阪府池田市は猪名川を挟んで兵庫県川西市と向かい合っていて、毎年夏の終わりに両市の合同で花火大会が開かれます。その花火の夜に五月山に浮かぶ大文字を、川向こうの川西の人たちは、生涯忘れないでいるのです。
その池田に「呉春」(ごしゅん)というお酒があります。ほんのり甘くて清冽、柔らかくて凛としたその風味は、猪名川の清流や五月山から箕面に連なるとりどりの花や紅葉たちに囲まれた北摂の地を思い起こさせて「津の国の春」のお酒です。
呉春という名は、江戸時代中頃の絵師で俳諧師の呉春に由来します。池田には呉服(くれは)という地名があり、京都出身(堺町通四条下ル)の彼が池田に一時期住まい、この「呉服の里」で新春を過ごしたことが、この名を名乗る縁となりました。
今も川西市と池田市を結ぶ国道176号線の、猪名川にかかる橋の名を呉服橋といいますが、池田には応神天皇のころ、大陸から呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の2人の織り姫がこの地に渡り、織物や染色の技術を伝えたという伝説が残っていて、呉服(くれは)や綾羽(あやは)という地名があります。この辺りに詳しい方なら、そういえば池田市の隣の豊中市に服部(はっとり)という地名があることも気がつかれているかと思います。
絵師の呉春の絵を先日、東京国立博物館でみつけました。
鳩のポーポポッポポーの鳴き声は、幼い頃の午後の音の記憶です。
『戴勝勧耕図』(たいしょうかんこうず)呉春 (1752-1811) 筆
東京国立博物館
同じく江戸時代の人で「富永仲基」(とみなが なかもと)という人がいたことを、偶然に、今日知りました。その富永仲基が池田の人で、その富永仲基のことを書いた釈 徹宗(しゃく てっしゅう)も池田の人だということも。
『天才 富永仲基 独創の町人学者』釈 徹宗(新潮新書)
https://www.amazon.co.jp/天才-富永仲基-独創の町人学者-新潮新書-徹宗/dp/4106108755
先日、上野の松坂屋の日本酒の売り場で「呉春」を偶然みつけたことと、「富永仲基」とも、何かの縁だろうを思い、ネットばかりでですが調べてみました。
富永仲基は1715年(正徳5)生まれで1746年(延享3)に32歳の若さで亡くなっていますので、呉春(1752年(宝暦2)-1811年(文化8))よりも40年近く前を生きていました。ちょうど、呉春の師である与謝野蕪村(1716-1784)と同い年ぐらいです。
富永仲基は当時からもいろんな人に注目されていて、特に、大乗仏教の成り立ちを独特の視点で捉えたことは、当時の人々にとってとても衝撃的だったことだと思われますが、そのことを書いた著書を記した翌年に亡くなっています。
ウィキペディア以外には、松岡正剛の千夜千冊に、いくつかの夜に渡ってその名がでてきていて、富永仲基をその周辺から「読む」大きな手がかりとなりそうです。
●江戸時代に構築された日本人の思想体系のこと、●内藤湖南の「日本文化と中国文化の関係についての見方」のこと、●大坂の町人による私塾「懐徳堂」のこと、●インド・中国・日本の仏教思想の特質「幻」「文」「絞」のこと、●三浦梅園と並ぶ人としてのこと、●圧倒的な論証力によって「世界のなかの日本思想の独自性」をあえて言及してみせた三枝博音が取り上げたこと、●小林一茶もチェックしていたこと。 などなど。
以下、千夜千冊からの引用です。
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1653夜『江戸の思想史』田尻祐一郎|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1653.html
【9:蘭学の衝撃】→杉田玄白『蘭学事始』『蘭学事始』、富永仲基『出定後話』『翁の文』、山片蟠桃『夢の代』、三浦梅園『玄語』『贅語』『敢語』『価原』、司馬江漢『春波楼筆記』
こうして漢学を学ぶことについても、たんなる儒の学びではない広がりをもつようになっていった。大坂の豪商たちが協力して三宅石庵を学主に迎えた「懐徳堂」(かいとくどう)は、中井竹山や履軒の代に盛況を迎え、富永仲基、山片蟠桃、草間直方、佐藤一斎、大塩平八郎らを輩出した。竹山には参勤交代の緩和と一世一元制を進言した『草芽危言』(1791)がある。全5巻のこの本は松平定信に献上された。
なかで、富永仲基の仏教史学は『出定後話』や『翁の文』にインド・中国・日本を渡ってきた仏教変遷の特色を解いて、それらが編纂編集によるもので、どんな学説も承前のものをバージョンを変えて加上(かじょう)するものだという論法(加上説)をあきらかにした。インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」だという指摘は、いまなお光っている。
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1245夜『日本文化史研究』内藤湖南|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1245.html
秋田に生まれ、山陽と松陰に学び、
東洋と日本を貫く方法を求めて、
支那学と日本文化史研究を研鑽しつづけた巨人。
富永仲基を発見して、加上の論理に着目し、
空海にも道教にも、書道にも香道にも、
そして山水画の精髄にも通暁した目利きの巨人。
平成混迷の、日中怪しき混雑の時、
この「歴史と美の崇高」を見抜いた内藤湖南を、
諸君はなぜ読まないのか。
この時期、湖南はのちに日本文化史上の大きな発見となる重要な出会いもしていた。富永仲基の『出定後語』(しゅつじょうこうご)と出会ったのだ。仲基についてはこれまたいずれ千夜千冊するつもりなので詳しいことは省くけれど、大坂の懐徳堂に学んだ日本初の仏教史学者で、「加上の論理」を唱えた。その概要は『遊学』(中公文庫)にも書いておいたので、読まれたい。
湖南は仲基を発見しただけではなく、仲基の仏教史の論述に深く入れこむことによって獲得したことがあった。それは「論理的基礎の上に研究の方法を組み立てることをした」ということで、すなわち「方法」こそが“独創の学”を拓くことを知ったのだ。さらに湖南は仲基を通して、「歴史的に最も古層にある事柄を解読することが最も新しい方法を生む」ということにも気がついた。
一種の“文化螺旋移動説”である。そこに富永仲基流の「加上」をもって文化史が積み上がっていくのを観察し、そのうえで古層の鍵穴をもって新たな文化の鍵を読み解いた。それが日本文化にもあてはまる。そういう見方であった。
全集の第9巻には、ほかに、正倉院について、山崎闇斎論、新井白石論、富永仲基論、慈雲飲光論、蔵書家市橋下総守について、山片蟠桃論、山梨稲川論なども入っていて、その守備範囲の圧倒的広さに瞠目させられる。
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1661夜『江戸の読書会』前田勉|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1661.html
ぼくは長らく懐徳堂に関心をもってきた。大坂の有力町人の三星屋・道明寺屋・舟橋屋・備前屋・鴻池という「五同志」が創設した私塾だ。三宅石庵が学主に迎えられた。享保11年(1726)に将軍吉宗から公認されて官許の学問所になったが、懐徳堂は一貫して私塾であって町人だけがかかわった。だから「町人の学校」と言われた。富永仲基、山片蟠桃、草間直方など時代を先駆けた批評精神の旺盛な異才が輩出したが、かれらはいずれも町人だった。
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750夜『三教指帰・性霊集』空海|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0750.html
さて『空海の夢』の冒頭、モンスーン下における砂漠型の二者択一の行動思想に対して、森林型の沈思黙考型、いいかえれば優柔不断型のインド思想というものがあるということを指摘した。
これを一言でいえば「坐って考える」という思想が、アジアになぜ生まれたかということだ。
砂漠型の行動思想では坐ってなどいられない。オアシスを求めて右へ行くか左へ行くか、つねに決断が迫られる。まちがった判断をすれば、それはそのまま死につながる。ユダヤやアラブやイスラム諸国の底辺には、いまなおこの二者択一的な行動選択がある。旧約聖書やコーランのスタイルだ。神や指導者もこのばあいに何人もいたのでは困る。だから一神教が多くなる。
他方、森林では雨季が多く、こういうときに焦って動いては事態の成り行きが眺められない。むしろじっとしているほうがよい。また森林では火の意味がきわめて大きい。そこで森林的東洋では(ガンジスの森がその代表のひとつだが)、「坐」の思想のほうが胚胎し、時間をかける瞑想が発達した。乾季に歩き、湿季に坐るというやりかただ。また火神アグニの信仰が重視された。
これがヴェーダや仏典に説かれたスタイルである。こういう風土では森の多様性にしたがって多くの神が必要になる。東洋が多神教になったゆえんであろう。
その多神多仏型の思想が流れ流れて分化して、結局は江戸の仏教学者の富永仲基の言い草によれば、インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」というような仏教思想の特質が流露していった。密教はこのヒンドゥ・ブディズムが分化していく途中に南インドから中国で発酵し、さらに日本で結晶したものである。
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993夜『玄語』三浦梅園|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0993.html
私が梅園を知ったのは内藤湖南によっています。湖南は支那文化論と日本文化論を比較した人で、私はなけなしのお金をはたいて、湖南の全集を買ってそれを読んでいたんです。父親が23歳のときに大きな借財を残して死んだあとのことでした。
その湖南全集第1巻のなかに『近世文学史論』というのがあって、文学史といいながら、実は江戸期の儒学、国学、医学、地理学のほとんど全貌の思想史を縷々書いているんですが、そこで、江戸300年間で創見発見の説をなしたるものは、ただ富永仲基の『出定後語』と三浦梅園の『三語』と山片蟠桃の『夢の代』の三書のみ、と言っているんですね。これにびっくりしました。
だいたい3人とも、どういう人だかわからない(笑)。名前を聞いたこともなければ、その著作が何を思想したかも知らない。日本人って、日本のことをほとんど知らないですからね(笑)。とくに日本の近世までの思想なんて、まったく知らない。私もそうでした。
でも、湖南にそこまで言われると気になります。いったいどういうんだろう? なんだか未知の珠玉にめぐりあうような胸の高まりもある。でも、これは困りました。どうやって知ればいいかということですね。けれども、困ったからこそ、そこに入っていけました。
また、この絅斎の子に、江戸の天文学者として日蝕を正確に予測して世間を瞠目させた麻田剛立がいるのですが、梅園は剛立とはかなり親しくして、つねに洋学を吸収していた。のちに梅園がティコ・ブラーエの天文学に傾倒するのは、このせいです。
その剛立が脱藩して身を寄せた大坂の懐徳堂は、私が大好きな私塾ですが、中井竹山・中井履軒の兄弟がおこしたもので、そこに内藤湖南が梅園とともに絶賛した富永仲基や山片蟠桃が学んでいたのです。梅園は中井兄弟とも文通をしていますね。
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1211夜『日本の思想文化』三枝博音|松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1211.html
『日本の思想文化』3巻「日本の思想 I」
日本における哲学的観念論の変遷を追っている。日本の唯物論者として、貝原益軒・荻生徂徠・太宰春台・富永仲基・三浦梅園・皆川淇園をあげ、唯物論に近づいた思想者として鎌田柳泓・山片蟠桃・安藤昌益をあげた。また近代の先駆者として、福沢諭吉・森有礼・中江兆民・幸徳秋水・内村鑑三・井上哲次郎・井上円了・河上肇・戸坂潤をピックアップした。ぼくは『著作集』のなかでは、当初はこの巻と5巻に埋没した。
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767夜『一茶俳句集』小林一茶 - 松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0767.html
そこで既存の一茶像を変えるためにも、ややわかりやすく意外なことを言うことにするけれど、一茶はまずもって読書家で、勉強家だった。かなり若いころから老荘を読んでいたし、富永仲基や荻生徂徠などにも目を通していた。
また、ニュースが好きなメモ魔の観察者だった。業俳とはそもそもそうした情報をネットワークする職能をもっていたのだが、とりわけ江戸での一茶は克明に世事を観察した。たとえば「うら店や青葉一鉢紙のぼり」「うら町は夜水かかりぬ夏の月」「うら住や五尺の空も春の蝶」など、鋭く都会の日々の「裏」を詠んだ。
裏店(うらだな)とは棟割長屋のこと、そこに住むことが「裏住み」である。そんな裏町では「江戸住みや赤の他人の衣(きぬ)配り」といった晴れがましいこともおこる。一茶はそういう情報俳諧をことこまかく詠んだのだ。
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さあ、ここまででなんとなく富永仲基の雰囲気が、見えてきました。
おそらく彼の32年の生涯の最後にまとめあげた「新たな大乗仏教の捉え方」が、その新しさと、その方法をもって、富永仲基ならしめているのでしょう。
わたしの場合は、釈 徹宗が著した『天才 富永仲基 独創の町人学者』のアマゾンでの読者レビューにあった、池田という地との関係からスタートして、この本を読んでみたいとおもいました。釈 徹宗がこの本を書いた動機の一つも、そこにあったような気がします。
富永仲基が、今の大阪府池田市を拠点としていたことにも、大阪の中心部との交通が円滑であったことも含めて、驚きです。仏教経典のほぼ全てを手近に閲覧できる環境や、自由に思索や研究を進められ、出版できる環境が、その当時すでに、郊外の池田に在ったというのですからね。
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今は、大阪の中心地の梅田と池田の間は、阪急宝塚線で20分足らずですが、江戸時代の当時の大坂の中心と池田との間の道のことなども含めて知りたいです。おそらく能勢街道と呼ばれた国道176号線となっている道がその中心的な役割を担っていたと予想されます。そうだ、阪急の創始者の小林一三が、自宅を構えたのも池田の五月山の麓でした。
そして、そこから内藤湖南へと辿るという「読みの道」を知って、また新しい思考の線ができそうです。それは、今に直結するとてもスリリングな道。
さらに湖南は仲基を通して、「歴史的に最も古層にある事柄を解読することが最も新しい方法を生む」ということにも気がついた。(松岡正剛)
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