志摩旅(3)*古代からの伊勢への路
伊勢志摩と呼ばれる伊勢と志摩。
近鉄電車は、伊勢をすぎると山の中を走って伊勢湾の入り口にある鳥羽まで行き、そのあと志摩半島を南下して英虞湾の賢島を目指します。
一方のJR東海の参宮線は鳥羽駅が終点なので、ここより先へは線路がありません。その名のとおり、明治26年(1893年)に津から宮川へ線路が敷かれ、伊勢神宮へ参拝する人を運びました。その後、明治44年(1911年)には二見ヶ浦などの海岸沿いに鳥羽まで伸びて今に至ります。
順番が逆転していますが、現在の近鉄志摩線となっている志摩電鉄が開業したのは1929年のことでした。
旅の計画の際に、賢島のあたりで食事ができるところを探していたのですが、歩いて行けるところには店がほとんどありませんでした。
でも、賢島の手前で特急が停まる鵜方駅は、検索するとレンタカーもあって飲食店も多く、伊能忠敬の伊能図には「鵜方村」とありますので、江戸時代から人が住んでいた場所だったのでしょう。
そうしたことが、今の時代にもちゃんと繋がっているとわかるのは、とても嬉しい。
また伊勢の、外宮、内宮のところは、山田、宇治と言う名がみえます。
近鉄では「宇治山田」という駅名ですが、豊受大神のそばには田があって、天照大神の方は宇治という山であるのも、何かが潜んでいそうです。
実際に車で走ると宇治のあたりは、なだらかな坂になっていて、小高いことがわかりました。
志摩は海からのアクセスは抜群ですが、陸側からは奥まった突き当たり。
伊能図には志摩と伊勢を結ぶ道は一本だけ(赤の線で書かれている道)で、鵜方から伊雑宮を通って内宮、外宮に通じています。
志摩國は伊勢の神の御食国となっていましたので、志摩の幸はこの道を通ったのでしょう。
なので今回は、伊勢道路と呼ばれる県道32号線を通って伊勢神宮へ行きました。
伊勢道路は約12kmの山道で、そばを流れる小さな川に沿って走ります。
伊雑宮から伊勢に向かう時に標識にある川の名前をみましたら「神路川」と書かれていました。やっぱりここが、伊勢の神のいるところへの道。
そして伊勢市に入ったら今度は川の流れが逆になって「島路川」という名に変わりました。島路川は内宮の南西で五十鈴川に合流しています。伊勢からは、この「島路川」が志摩への道となっていたのですね。
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伊雑宮は入江が深く入り込んだ場所にあって、そばに神田がありました。
とても穏やかで清々しい空気に包まれて、この地に立って見ると、古くからここは、真水に恵まれつつ洪水や水害のあまりない、稲を作るのにとても良い場所だったのだと実感しました。稲作が伝わった頃は米はとても珍しく貴重だったはずですので、もしかしたら伊勢の神に捧げる志摩國の幸は「米」だったのかもしれない。
倭姫命が御食を提供してくれる場所を一生懸命探していたのは、外宮に豊受大神が来られる前のことですし、地形からも、おそらくこの地で米が作られ始めたのは、伊勢の外宮のあたりで稲作ができるようになる以前のことだったのではと思いました。
そんなことを思いながら、今回初めて、伊雑宮から外宮、内宮へとお詣りしてきました。
そして朝食でいただいた三重のお米は、本当にとても美味しかったです。