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【映画レビュー】夏の終わりに願うこと

もう1年くらい更新していないのに、たまに誰かが見てくれているのは地味に嬉しい。久しぶりに映画のレビューを書いているのは、先日「夏の終わりに願うこと」というメキシコの映画を観て、とても感動したのだけどレビューサイトではそんなに高評価ではなかったことと、そのレビューサイトに書き込んでやろうと思ったけど短くまとめられなさそうだったので、そういえば自分のページがあるじゃんと思って個人の記録として書いている。

私が観たサイトには、タイトルから容易に結末が想像ができて面白くないとか、だらだらしたドキュメンタリーっぽくて感情移入ができなかったとか、賞をとっている割りには別にそこまでじゃないとか、そういうことが書かれていた。全然違う。多分私はこの登場人物の誰にも属性が当てはまらないから、逆にみんなに共感ができたのかもしれない。


まずは公式HPより、あらすじ。

7歳の少女・ソルは、父・トナの誕生日パーティーのため祖父の家を訪ねる。病気で療養中の父と久しぶりに会えることを喜ぶソルだったが、身体を休めているから、となかなか会わせてもらえない。従姉妹たちと無邪気に遊びまわることも、大人たちの話し合いに加わることもできず、いらだちや不安が募るばかり。やがて父との再会を果たしたとき、それまで抱えていた思いがあふれ出し、ソルは“新たな感情”を知ることになる。

よろこび、悲しみ、希望、落胆。波打つ自身の感情の変化に戸惑いながらも、物語のラスト、少女が願ったこととは—?

儚くきらめくメキシコの太陽に照らされて、誰もが大切な記憶を思い出す、宝物のような傑作が誕生した。

https://www.bitters.co.jp/natsuno_owari/index.html



いとこ達との対比

主人公ソルは、7歳だけど何か人生を悟っているような大人びた女の子。同年代のいとこの女の子がいるけど、その子はソルがピエロの格好をして現れたら「変なの」と遠慮もなく言ったり、猫にコーヒーを飲ませようとしたりする。無邪気で無知で幼稚な従姉妹は、普遍的な幼い女の子像として描かれていた。

また、少し年の離れた従兄弟のお兄ちゃん達もいて、一般的な男子中学生らしくゲームに夢中で、特別なヘッドセットを持っていることも、大衆文化が好きで、(大袈裟かもしれないけど)物質主義的な象徴として描かれている。

彼らとは対照的に、お母さんは確か役者をやっていて、お父さんは画家という影響からか、アートや自然に心惹かれる。いとこの女の子の無邪気な明るさはなく、少し大人びているので、大人の表情や会話をなんとなく理解することができて、少しずつ寂しい気持ちが募っているのが滲み出ている。



動物に詳しいソル

お風呂場でカタツムリを見つける。オウムに話しかける。犬と仲良くなる。おじさんから金魚をプレゼントされて可愛がる。あとで父親のトナが動物の絵をプレゼントしてくれた時、それぞれの動物の特徴について話す。なんかこれは単純に「少し変わった物知りな子」というよりも、ソルが孤独で一人で過ごす時間が多いから自然とそうなったのではないかと思ってしまった。



大人はそれぞれの完璧を求める

祖父の家で療養している父に会いにきたのに、なかなか会わせてもらえない。「まだ具合が悪いから」とか「シャワーして綺麗になったらね」とか。ソルは父の具合が悪いことなんて分かっているから早く会いたいのに、なぜか父の姉妹達もヘルパーのおばさんも大人達は皆はぐらかす。
でも、これは大人達が意地悪をしているわけではなくて、「より良い姿」を見せるために、トナとソルを気を遣っているから故の配慮なんだけど、それぞれの善意が噛み合わない。なんかこの噛み合わない優しさっていうのも、サブテーマとしてある気がした。

パーティーについて
おそらくトナにとっては最後の誕生日だから、親戚・友人・恩師を招いて盛大なパーティーを開催する。治療にお金がかかるので、少しでも募金を集めたいという魂胆もある。トナの姉Aはとにかくこのパーティーを完璧にしたい。段取り通りに進めたい。確かにこういう人いるし、往々にしてこのようなパーティーは「楽しく過ごそう」という本来の目的を見失ってしまいがちだ。

姉Bもトナと同じくアーティストで、パーティーではケーキを焼く担当だった。少しでもスペシャルなものにしたくて、ケーキにゴッホの絵みたいな装飾を施そうとする。しかしケーキを焦がしてしまい、焼き直して、パーティーの途中もペインティングをし続ける。姉AとBはケーキのことで喧嘩する。なかなかBが現れないから、トナがよろよろとした足取りでBに会いに行く。
ソルはそのケーキを見て「大袈裟だ」と呆れた顔で言う。これは文化の違いかもしれないけど、ケーキの上の花火も日本みたいにパチパチ系ではなくて、ボーボー燃えている。

治療について
病院での治療はありとあらゆる手を尽くした。でも容体は悪くなって行く一方だ。どうやらソルの祖母も同じようにガンで亡くなっているみたいだった。姉達は治療費を払うのも厳しい中、よくわからないお祓いの人を呼ぶ。通貨はなんだったか忘れたけど、200と聞いていたお祓いの費用は、「ここは特別に力が必要だったから300」とぼったくられて、疑いもせずに支払う。一方でずっと付きっ切りで介護をしてくれているヘルパーさんには何週間も給料を払っていなかったみたい。そういう矛盾はどこにでもあるなと思う。日常には感謝せずに、特別なよくわからないものをありがたがる現象。トナのためというよりは、何もできない自分たちのための安心材料なのだと思う。エゴといえばそれまでだけど、もっと優しい言葉はなんだろう。


そもそもトナは、こんな盛大なパーティーを望んでいなかったし、生きることに希望を抱いてもいない。だから治療費のためのパーティーだったら必要なかったのだ。トナも、自分がまだ元気なうちに愛する人たちと時間が過ごせたらいいだけなのに、なぜか大事になっているのは厄介だった。けど、自分のために時間と労力を割いてくれていることには感謝していた。
大人達はなぜかそれぞれが信じきっているbetterを追求する。でも多くの場合、それは元々の目的からかけ離れてしまう。出発点は同じだったはずなのに、各人の正義は交差しないから対立してしまう。
この1日で優先すべき存在は、パーティーの主役のトナとその娘のソルであるはずなのに、ソルは誰の正義にも含まれていない。
ソルはパーティーもお祓いも、遠くから虚ろな目であるいは不思議そうに眺めていた。


家族3人の時間

ほんの一瞬だけ、ソルと両親だけの時間が訪れる。私はここが大好きだった。まずは父がソルに動物の絵をプレゼントする。この絵を通してパパはソルに会うことができるんだよと言っていた。(まずここで容易く泣く)
母が父に誕生日プレゼントを贈る。何かおはじきのようなものが入った筒で、おはじきを投げてなんの形に見えるか連想する遊び道具だった。トナの姉達とは嗜好が違って、派手なものではない。散らばったおはじきを見て、3人は雲やビーチを連想する。無形のもので無限に思いを巡らせることができる。多分ソルだったら、もし父が亡くなっても、形のないものに父の存在を感じることができる。(ソルが嬉しそうにしていて、またおいおい泣く)


ソルは物質的ではなくて精神的なつながりを求めていた。会って話ができる時間が少しでも長く続けばよかった。こんなに大人達が周りにいるのに、大人達は自分の正義を遂行するために躍起になっている。決して彼らがバカな訳ではない。お金とか知識とか経験とか世間体とか、そういう軸があることで逆に見えなくなってしまうことがあるなと思う。7歳の子どもだったら「私を優先して!」と泣き叫びたいところだろうし、実際私は映画を観ながら誰かが「ソルのために」と言ってくれないか期待していたけどなかった。最後バースデーケーキをみんなで囲むシーン、ソルがいろんな感情を飲み込んで、じっとろうそくの火を見つめていたのが切なくて苦しかった。



この映画を観たのは、大阪にあるシネマート心斎橋。大阪に住んでいた時はいつか行けるだろうと思って、結局一回も行かなかった。残念ながら10月24日で閉館になるらしく、滑り込みで行ってきた。正直この映画目当てというよりもスケジュール的にこの映画が都合が良かったという理由だけで観たのだけど、本当に大当たりだった。


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