塔2023年2月号から 十首評

塔2023年2月号から気になった歌十首を取り上げ、私なりの解釈をコメントとして添えさせていただきました。いずれも素晴らしい歌ばかりですので、私のコメントを読む前にまずはそれぞれの歌を読んで感じとっていただくのが良いと思います。本文を読みやすくするため、以下では「私は」「と思った」「と感じた」等を省いていますが、コメントはいずれも私個人の感想です。誤字等ありましたらご連絡いただけますと幸いです。


秋天の空ほろほろとこぼれそうしばし瞑ったあとの世界に/永田淳(月集)

つむっていた目を開いて秋の高い空を見上げてみると、一番高い場所からほろほろと何かが剥がれ落ちてきそうな気がする。そんな様子を描いた美しい歌だと読んだ。ここでは「ほろほろとこぼれそう」なのは「秋天の空」だと解釈したが、涙や感情と解釈することもできるだろうし、あるいはその両方かもしれない。目をつむっている間にいろいろなことが頭の中をよぎり、「しばし瞑ったあとの世界」は今までとすこし違って見えたのだろうか。「世界」というとてつもなく大きな言葉を使っているのに、それが歌全体のバランスを崩していないところが絶妙。

落鮎の季節となりて九頭竜川くづりゅうは夕ぐれの虹の輪をくぐりゆく/上田善朗(月集)

落鮎おちあゆは産卵のため秋に川を下る鮎のこと。「九頭竜川くづりゅう」という強い音は、岩に当たって崩れるような激流を感じさせる。小さな滝でもあるのだろうか、夕暮れ時に川面に虹がかかっていて、川はそこをくぐり抜けて下流へと流れていく。この幻想的な風景は、落鮎を見守っているようにも見える。「九頭竜川くづりゅう」と「くぐりゆく」がやわらかく韻を踏んでいて、読んでいてとても心地がよい。

ぼんやりと一番列車の音を聞くとり残されてどこまでが過去/亀谷たま江(月集)

朝の薄暗い時間帯だろうか、まだはっきりと目が覚めていない意識のなかへ、一番列車の走る音が聞こえてくる。作中主体は何かから取り残されていると感じていて、「どこまでが過去」だろうかと自分の記憶をたどり始める。意識の細かな動きを捉えた歌。では、「どこまでが過去」とは一体どういう問いなのだろうか。現在と過去の時間的な境界はどこにあるのかという哲学的な問いにも思えるし、現在の人や物と過去になってしまった人や物との境界がどこにあるのかというより現実的な問いにも思える。はたまた、その両方を含意した上で、人や物に関する自分の記憶のどこまでが過去のものになってしまったのかという内省的な問いにも思える。もしかすると、作中主体は問いの正体をまだはっきりとは掴めていないのかもしれない。やや混濁した意識のなかでの手探りの様子が見事に描かれている。

遠浅の海のやさしい色合いの声でわたしはわたしを叱る/君村類(新樹集)

遠浅の海なら波は穏やかかもしれないが、果たしてやさしい色合いをしているだろうか、という疑問も浮かぶのだが、遠浅の《とおあさ》という柔らかい音の前では、そのような疑問などどうでも良くなってしまう。《とおあさ》はア音とオ音が並んでいるから、口を大きく開けて発音される。それは大声で人を叱るときの口だ。しかしここではそうではない。その声は「やさしい色合いで」あり、「わたし」に向けられている。どんなことで自分を叱るのだろうか。それはここには書かれていないが、何かを確かめるような落ち着いた口調であったに違いない。

地図帳に散らばる島をたどりゆけば国境線は海にただよふ/広瀬明子(百葉集・作品1 花山多佳子選)

大陸に位置する国々の国境線は、分水嶺や河川に沿って引かれていることが多く、それは地形を見ていれば浮かび上がってくる。その一方で、島国の国境線に目をやると、それは何の変哲もない海上に存在していて、まるで海に漂っているかのようだ。もちろんこれは国際的な取り決めに従って正式に定められたものだが、陸地から遠く離れた海原に人為的な線があるというのは、ひどく頼りない主張にも思える。この歌は、島国の国境という概念の頼りなさを書いた歌と読めるし、さらに日本の国防に関する言い知れぬ不安感を書いた歌とも読める。

コスモスの花束はこびつつ風の標本みたいなかるさとおもう/大森静佳(作品1 花山多佳子選)

コスモスの花束の軽さを「風の標本」に喩えた歌で、作中主体が軽い足取りで街中を歩いて行く様子さえ思い浮かぶ。「花束はこび/つつ風の」というまたがり方が面白く、後半へ向かって歌に勢いをつけるとともに、歌全体の韻律を引き締めている。コスモスの花束を運んでいるときに感じた軽さは、コスモス自体の軽さに起因しているのだろうか、それとも作中主体の軽やかな気持ちに起因しているのだろうか。「風の標本」という表現も面白く、昆虫標本の軽さと脆さを思い浮かべる。下の句のほとんどが平仮名で占められていて、花束の軽さを視覚的に表現しているようにも見える。

結び目に秋蝶しづかにおりてくる隧道ぬけたらほどいてあげる/澄田広枝(作品1 小林幸子選)

髪紐の結び目だろうか、それとも靴紐の結び目だろうか。そこへ蝶が止まってしまったものだから、このトンネルを抜けたら私が取ってあげよう、と言っているのだろうか。それとも、「秋蝶」は結んだ髪紐や靴紐の暗喩で、このトンネルを抜けたらほどいてあげよう、と言っているのだろうか。おそらく作中主体を含む二人はトンネルの中にいて、歩いているのか列車に乗っているのか分からないのだが、いずれにしても、「ほどいてあげる」のは今すぐではなく「隧道抜けたら」だというのが状況的にやや不自然で、この歌の文脈を捉えることは難しい。しかし、「秋蝶」と「隧道」という言葉の取り合わせや「ほどいてあげる」というやさしい語り口のなかに静謐な雰囲気があり、ある説得力を持って読者の眼前に立ち上がってくるイメージがある。滑らかな韻律や選択されたモチーフからは、どこか不気味な童謡のような雰囲気も漂っている。

あの日からわれに棲みつく、コスモスを食みてうすいむらさきの鹿/森山緋紗(作品2 永田和宏選)

夕暮れだろうか、低い日差しを浴びて薄紫色をまとった鹿が、コスモスの花弁を食んでいて、その光景を見たときから忘れることができない、ということだろうか。あるいは「うすいむらさきの鹿」は、「あの日」に抱いた固有の感情を指す暗喩で、その感触をいまだによく覚えている、ということだろうか。「うすいむらさきの鹿」がコスモスの花弁を食べている様子は、何か見てはいけない神聖な儀式のような気もするし、実際、薄紫色の鹿は神の使いであったのかもしれない。分からないことが多く、歌の解釈の多くは読者に委ねられているのだが、小難しい解釈などせずにそのまま受け止めれば良いと思わせるほどの、力強い美しさがこの歌にはある。

とびらとびら閉じゆくとびらさくらさくら 猫を焼く部屋/小松岬(作品2 小林信也選)

飼い猫の死を描いた一連からの一首。棺を焼く火葬場の扉だろうか、それが幾重にも重なっていて、奥から順に閉じられていく。その描写のなかへ、「とびら」という音から導かれて「さくらさくら」という音が挿入される。「さくらさくら」のやや悲しげな曲調が思い出されると同時に、桜の花が徐々に散っていく春の景色が思い浮かぶ。幾重にもある扉の最奥には、猫を焼くための小さな部屋が用意されている、ということが作中主体にははっきりと分かる。歌は大きく破調となっているが、韻律は読みやすく心地よい(「とびらとびら/閉じゆくとびら/さくらさくら/猫を焼く部屋」の六・七・六・七音で読んだ)。一字空けのあとで、「猫を焼く部屋」という七音が重石のように響いてくる。

「不思議だね」「不思議だね」つてもう一度月食を見て言ひたかつたね/三浦肇(作品2 山下泉選)

この直前に「亡くなつた君のふるさと長崎へ喪中の葉書放つ風の日」という歌が配置されており、作中主体の配偶者が亡くなったことが暗示されている。家のベランダだろうか、それとも夜の帰り道だろうか、二人で月食を見ながら「不思議だね」と話している仲睦まじい様子の思い出が語られる。結句が「言ひたかつたね」と独白ではなく語りかけになっているため、この言葉がどのような状況で語られたのかに読者の想像は向かっていく。区切れがなく結句までするすると読める一方で、歌のなかに複数の時間が内在しており、作中主体の抱える重層的な時間の広がりが読者の中へ流れ込んでくるような気さえする。