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土佐藩岩崎と、江戸の東洋文庫・六義園

12月上旬の東京です。ちょっととりとめのない連想になってしまいました。

東洋文庫」というところの入場券をもらったので、東京仕事を午前で終わった日に行ってみることにしました。

「東洋文庫」とは、本屋でも図書館でもなく、「東洋文庫ミュージアム」。今回、「海の東南アジア」のテーマということで、ASEANのこととか、中国から日本への仏教伝播、日本とアジア諸国の貿易の歴史に関する資料の展示がありました。
ここは岩崎系、要するに三菱系の建物です。

外観はこんなのです。
知らなかったらそのまま過ぎ去るやもしれぬ。

中の展示物は基本的に撮影不可です。外は自由です。そりゃそうですね。
展示は絵画や陶芸品ではなく、本やパネルがメインです。

資金源は三菱の寄付金とか、政府の学術系補助金のよう。
1Fでは三菱系の小岩井農場のお菓子とかも売ってる。


東洋の研究センターみたいなとこです。大学や施設の研究員が講演、講座を行う場であったりもします。私は(霞山会)東亜同文書院系のところに縁はあったのですが、こちらは機会がなかったですね。

広開土王碑(好太王碑)のレプリカ。
高句麗の建国から倭との関係が書かれている。
が、詳細と解釈については諸説あり。

ちなみに、(霞山会)東亜同文書院というのは、もともとは二次大戦中に上海にあった、(中国)大陸に雄飛する人材を育てるためのエリート学校。現在この流れにある教育施設は愛知大学霞山会です。現在も中国語の辞書や参考書もこのあたりの研究施設から出版されていたりしまs
「霞山」というのは、34・38・39代総理近衛文麿の父である近衛篤麿の号です。近衛文麿の息子の文隆は戦勝国との(日本の不利になる)政治的取引を拒んで、シベリア抑留で亡くなった、ノーブレスオブリージュを体現したひと、と評価をされる人です。近衛文隆のこととかこの時代のことは西木正明の小説「夢顔さんによろしく」とか、それを題材にした劇団四季の「異国の丘」でよくわかります。いわゆる日中関係史、というのは善悪や優劣や功罪を単純化してもらいたくないですし、実際自分の生きていなかった時代のことについて、わかったふうなことを言いたくはないですね。

で、たいぶ話がはずれましたが東洋文庫の目玉はこのチケットの写真のモリソン文庫。ここにある本を実際手にとることはできないので、他人の蔵書を眺めるだけなんですけど・・・ジョージ・アーネスト・モリソン(オーストラリア人)という人の東洋関係の文献の山。岩崎久弥(岩崎三代目)がそっくり買い取ったものらしいのですが、岩崎屋はほんとにこういうことに学術的興味はあったんだろうか・・・?なんかリチャーズ(かねもち)が、分厚い美術本をリビングの棚にこれ見よがしに飾ってるように思えなくも(すいません)。

そういえば岩崎久弥の長女はエリザベスサンダースホームという、事情があって親元から離れて暮らさざるを得ない子ども、または孤児のための、キリスト教系養護施設を作った人。これは神奈川の大磯にいまもあるし、私も所用で行ったことがあります。小さい山(丘?)にホームとか学校(聖ステパノ学園)とか教会とか、すべてがありました。簡単に言葉にできない感情が去来しました。今も敷地内のこども、海の見える教会、よく覚えています。

建物内自販機は当然にKIRINですよ!
三菱とキリン、ロックフェラーの関係性は、
明治維新の日本の財閥とかマネーの流れからとても顕著。

うわああ 孫文ですよ、ここで!
なんか近代史のあれこれの関係性をここぞと見せつけてくれますね。
展示そのものよりも、こういうところに心が揺さぶられますわ。


道をひとすじはさむ感じで、「六義園」があります。
ここも岩崎系。

東洋文庫とは共通チケットがあるようですが、
私は東洋文庫分はタダ券があったので、六義園だけ別で買います。
平日の午後でしたが、けっこう人がいました。
そうですか、岩崎さんはお金があるのですね。
私自身は、ばきばきの佐幕エリアの出身です。
六義園は紀州がモデル!!これは知らなんだ。


「一会桑いちかいそう」  紀州「一」橋、「会」津、「桑」名を国賊扱いしながらも、戊申戦勝国・土佐の岩崎さん、紀州には何か憧憬があったのですかね?

紅葉のシーズンでした。

東京は紀尾井町の「紀」も紀州やし。雄藩であったことがよくわかりますね。ちなみに尾は尾張、井は井伊家です。彦根(ひこにゃん)の「彦」ではなくて井伊の「井」。

鴨とか鯉とかがいる。
てくてく。
正直言って説明されても、なるほどだからこの景色ね!
と膝を打つ感じにはなれませんでした・・・
紀川・・・?
奈良で言うところの吉野川ですね。和歌山だと紀川。
この川のために、今も奈良県内に和歌山県の北山村という飛び領地がある。
こういう感じはすきです。
吉野、和歌の浦から唐土って、けっこう飛躍ある気がするのですが。
紀伊山地の奥は秘境ではあるので、何かそういった連想が働いたのでしょうか。

東京の文教地区で、岩崎と紀州の関係を見るとは思わなかったですね。
なんかとりとめない備忘になってしまいました。

しかし自分の経歴と興味がこういう自由連想に行きついてしまうん。
同じもの観ても、見えてるものはひとによってずいぶんと違うんやに。

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