
自分自"神"の本質
子どもの頃から、
宇宙の成り立ちとか、
自然のエネルギーの性格、それこそ精霊みたいな存在とかを
言われなくてもなーんか知ってるなぁっていう
スピリチュアル的な世界観や感性って、
皆もあったりしなかった?
で、そういった、
自分の芯の部分で、元から知ってた、みたいなのって、
物心ついてから、人間社会に馴染んでくにつれて、
薄れていってない?
それが、私にも当てはまっていてね。
きっかけはともあれ、そういった自分の芯の感覚を取り戻すという意味合いでも、私はカタカムナの音霊や、月日信神事の考えを、分かってんのかどうか解らんながらも学び続けているのね。。
で、そんなことをし続ける中で、今日、夕御飯を食べる時に、手を合わせて、
いつもの通り感謝をしたんだけど、、
いつもならそのまま食べ始めるのに、
今日はなぜか、
日月神事の「先ず神に祀ってから食べよ」って言葉が、強調されて入ってきて、、
??と思いながら、そうだよね💦って、私は心に神様を思い浮かべて、
ありがとう✨✨って、
食べ物の気と私の感謝の気持ちを練り合わせた球を差し上げるイメージを送ったら、、
そしたらね、、笑
なんと!
なんかさっき差し上げた感謝玉が、まんま私の「ありがとうね」、という響きと共に返ってきたの 笑
!?ってなってたらその次に、
私で在ってありがとう。
と、、
どこからともなく、全体から、
はっきり聞こえてきて。。
その瞬間、私は感覚的に理解しました。
今目の前にある夕飯。
お米、お肉、野菜。
全ては、、私自身。
私が、私という形にならなかっただけの、
幾分かに枝分かれした
エネルギーの分身であったことを。
当たり前ですよね。だって、
私たちという存在、私たち自身を構成するこの分子、量子、粒子からすべて、
宇宙のカケラなんですから。
そして、その私たちの分身である食べ物
その大元である"命たち"が、
彼らにとっても分身である"私"が
"私"で在り続けるために、
その命を分けてくれている。
今まで私はこの食物連鎖システムに残酷さと罪悪感を抱いていましたが。
その印象が変わりました。
それだけじゃなかった。
そのような、単純な食う、食われるの関係をはるかに超えたところに、
この"私が在り、私に成る"ことを、
祝福してくれる
エネルギー循環の理があることを理解しました。
そう、まさに
個の境目を越えた、愛と呼んでいいだろうエネルギーであり、
個の意識を超えた深いところでは、その波長のエネルギーが、ただただお互いの存在を喜ぶためだけに注がれていたことを、思い出しました。
空も、雲も、土も、
葉っぱも、虫も、動物すべて、
私という形を取らなかった私自身。
それを身体で感じ取った瞬間、
今までとははるかに違う、
底知れない感謝の気持ちが溢れました。
あらゆるものが、さらに愛おしくなりました。
同時に、自分自身を大事にするということが、どれだけ大事なことだったかも改めて感じました。
私で在ることを認めてくれた他の私たちの思いに応えること、
それが私を"正しく、大事".にすること。
そして、他の私である、周りの"個"も、同じように大事にすること。
それが、本当の意味での"感謝"であり、"祀り"。
世界のいろいろな側面も、大事な私、
そもそも、宇宙そのものが、私。
だから、神様そのものでもある、私。
そんな私=皆が
真の意味での己の尊厳を黄泉返らせて、
しゃんと背筋を伸ばせば、
世界は、確実に変わる。
そう確信した夕暮れでもありました。
これが私の
"心が出した解釈"です,
日月神事、カタカムナに出会えて、本当に良かった。
全ての事象に感謝しかないです。
皆さんも
皆さんで在ってくれて、ありがとう。
私自身この感覚、概念を感じたまま文章に下すのがなかなか難しく、伝わらないところもあるかもですが、
もし、これを読んで感覚的に思い出すものがあったのならば、