(エッセイ)育児から逃げまくっている6年前の自分へ
育児から逃げまくっている、6年前の自分へ。
君はカルボシステインを知っているだろうか。知らないはずだ。君は0歳児の育児から逃げまくり、小児医療証を触ったこともないのだから。カルボシステインとは何かをズバリ教えよう。ムコダインと同じものだ。
「結局は母親が一番」と言って、育児から逃げる6年前の自分へ。
日本には「母性教」という宗教がある。信者は圧倒的に男性が多いようだ。信者かどうかはすぐに分かってしまう。母性教の男性信者はいつも「結局は母親が一番」という念仏を唱えている。経験者だから分かることだが、この念仏を唱えると現実(責任)から逃避することができる。
無宗教のつもりが母性教の信者だった君に、もうひとつ残念な知らせがある。
父親も一番になれてしまう。妻の徹底的な抵抗によって「指示待ち人間」から脱した君は、4年後に生まれる次男の「一番」になる。
次男はなんと君に懐き、添い寝の相手にも選ばれ、妻からは「私を超えたね」といわれる。その言葉を誇らしく思う日がくるのだが、今の君には想像すらできないはずだ。
「仕事がある」と言って、まだ育児から逃げる5年前の自分へ。
まず育児という仕事は君の職業よりも遥かに歴史が古く、遥かに人類全体のためになっており、遙かにきつい。育児は年中無休で働き続けても、給与は出ない。まず給与がある時点で育児の敵ではない。よく「母は強し」というが、正確ではないと思う。正しくは「母は強くなるしかなかった」ではないだろうか。
もう分かると思うが、「仕事がある」と偉そうにしていいのはどちらかといえば妻の方なのだ。
育児は仕事の妨げになると考え、まだまだ育児から逃げる4年前の自分へ。
4年後の君は、毎朝保育園の連絡帳を書き、着替えを用意し、保育士さんからくるLINEに返信し、車で送り迎えをしている。世の多くのお母さんがやっている、平凡なようだが大変な仕事を当然の事としてやるようになる。
そこで君は育児を通して自信を得る。「変わる」ことを決めた君にとっては、小さな目標を日々達成しているからだろう。自信を得ると行動力が高まり積極的になり、「文は人なり」で筆力にも良い影響があった。
結果的に育児は仕事にプラスになった。
もちろん風邪による早退で一日の予定が吹き飛び、発狂したくなる日もある。しかしマトモではない君のような人間は、育児を学びの場にして成長するべきだ。「マトモではない」から「ややマトモではない」に成長するはずだ。
ようやく改心する気になった、3年くらい前の自分へ。
改心する気になっても、「育児は自分の仕事ではない」という意識の根深さを自覚するまでに時間が掛かる。育児は自分の仕事だと思っていないから、補助的な役割しか君はやろうとしない。
例えば保育士さんと日常的なやりとりは妻の役割だと思っている。夕食作りも同じだ。だからまだエジソンという名前すら知らない。違う、そうじゃない、「発明した方」のエジソンではない。「発明された方」のエジソンのことだ。
ようやく変わり始めた2、3年前の自分へ。
君はようやく現実と真に向き合うようになる。そして子どもと世界を再発見していく。
具体的には、ダンゴムシと花の世界、遊具が充実している公園の場所、そして歩道にある煩わしい段差を再発見する。あわせて「育児から逃亡した過去は永遠に許されない」という現実も発見する。
別の発見もある。現代日本で父親が育児にコミットすると異端者になるということだ。
まず男性社会における「育児やってます」はウケが悪い。特に僕の取材領域であるスポーツ界は週末にも練習がある世界。「育児男」に対する共感は乏しい。
かといって育児側へいっても、そこはお母さん達が主役の世界だ。
保護者同士の「ママ会」は頻繁にあるが「パパ会」は存在しない。あっても「お仕事は何をされてるんですか」系のつまらない会話しかできない。戦友同士のママたちとは関係性の深さが違う。
君は異端者として狭間に生きることになる。その状況はその後も変わらない。
それでも未来の君は、もう構わないと思っている。褒められなくても、仕事にプラスにならなくても、もう別に構わない。構わないというか、命がそこにある、だからやる他はないのだ。
育児から逃げまくっている、6年前の自分へ。
君はいずれ、これまでとは違う人生の目的を得る。その新たに加わった目的は、姿形を持っている。動き回り、泣き叫び、こちらに都合の悪いことを散々した後で、よく眠る。
6歳と2歳の育児は何も終わっていない。この記事を書き終わった後も、きっと何かが起こり、発狂寸前まで追い詰められるだろう。
でも、それでいい。未来の君は心からそう思うようになる。