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あるお坊さんの話が深かった件について

随分前にテレビで見てずーーっと心に残っている話があります。


山の奥の奥の方のお寺で修行をしているお坊さんたちの取材の話でした。

たしか、そのお寺では広い境内の掃除を修行僧たちがするしきたりがありました。

それだけならどこにでもあるお寺の風景ですが、このお寺では冬には縁側に雪が積もるのです。

山奥で標高もそれなりに高いでしょうし、まして雪が降り積もるような場所で極寒の縁側の掃除をするなんて(素足、素手で)考えただけでも寒くて冷たくて体が震えてきます。


そんな場所で修行の一環として行う掃除。

お坊さんの中でも立場が上そうな方がインタビューに応えていて、この文化、風習について話していました。
この内容を僕はどうしても忘れられず、深夜に思い返してこのnoteを書いているのです。


その話は記憶が定かではないですが、こんな内容でした。

たしかに冬はとても寒くて手足が凍えそうになる辛い掃除ですが、これをやることによってたまにくる暖かい陽射しに感謝できるのです。


この短いインタビューの内容から様々なことを学び取れると思います。僕は3つ、自分の経験も含めて感じ取ることがありました。それをここで紹介したいと思います。


まず一つ目、
幸せの感じ方についてです。

僕が好きな映画でアバウトタイムという洋画があります。
よく友達にもおすすめの映画を聞かれたときに答えるのですが、この映画の主人公は時間を遡る超能力を持っています。

SFかな?と一瞬思いますが、ラブストーリーってことになってます。
事実、この超能力は愛する恋人との関係に使われることが多かった?記憶があります。


でも僕はこの映画にはもっと強いメッセージ性があると思っています。

主人公が多忙な仕事をこなす1日が描かれるシーンがあるのですが、彼はその仕事の忙しさに追われ、精神に余裕がないように映ります。

彼はタイムトラベルを使って同じその1日を2度迎えてみることになります。

昨日(同じ日ですが)はコンビニの店員に対してそっけなかった彼が、今日はニコニコしながら軽快に話しかけて意気揚々と会社へ向かいます。
会社でもミスをした部下にユーモアを交えて慰めたり、余裕のあるプレゼンをしたり。

2度目の1日をとても優雅に、いかにも楽しそうに過ごしていくのです。


この場面から僕らは学ばなければいけないなと感じます。


全く同じ日の同じ環境でも周りの人を幸せにし、自分自身も幸せになっていく2日目の主人公のように生きれば、幸せはもっともっと良い環境に「求める」ものではなくて、そこにある現状に「感じる」ものなんだということが分かるでしょう。


山奥のお坊さんにも同じことが言えます。

彼らは山奥での極寒修行を経て、僕らがなんとも思わない陽射しを心から感謝できる感性を持ち合わせることができるようになるはずです。



2つ目は、
絶望と希望の関係についてです。



また映像作品の例を出して申し訳ないのですが、書かせてください。
僕は数年前に放送されていたドラマ、「カルテット」が大好きでした。(再放送してほしいくらい)

その中でのセリフ

泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます

が特に心に残っていました。


有名なドイツの詩人、ゲーテは

涙とともにパンを食べた者でなければ
人生の味は分からない

という名言を残しています。


「絶望」を味わったことのある人とそうでない人の間には目には見えない大きな差があるように最近思います。

僕は浪人という過酷な一年を乗り越えて大学へ入学しましたが、同じ環境で大学を目指した仲間達には尊敬の念を抱きます。それとともに、泣きながらご飯を食べてきた彼、彼女らならこの先少々のことがあっても生きていけるのだろうとも思うのです。

実際志望校に合格できずに涙を飲んだ人たちもそれぞれ自分の夢を追って努力している人が多く、よく刺激をもらっています。
僕がnoteを書くのはこの浪人時代の友人に会った後が多いです。


僕の浪人友達、そしてお坊さんたちのように、苦しいこと、辛いこと、絶望を味わった人はそうでない人よりもより暖かい陽射しの尊さを知っています。希望の尊さを知っています。その分だけきっと生きていけるのです。



最後に。

僕はその山奥のお坊さんの掃除の話を聞いて、「非合理的だな」という印象を初めに抱きました。

足には足袋、靴を履いて、手袋(それもとびっきり厚いの)をしてやればいいじゃないかと。
もっと言えば縁側に雪が積もっちゃダメでしょ!

と思いました。



しかし、ここにこそ修行というものの本質が秘められているように今なら思えるのです。



修行僧たちの中に、真冬に自ら進んで雪の中へ飛び込み、身体中を冷やしたいと思う人はいないと思います。

それでもしきたりや風習には何か意味があるのだから彼らはそれをやり遂げるのだと思います。

実際上の2つで述べたように、この過酷で非合理的で俗に言う昭和的な労働、これがちゃんと意味を為して彼らの精神を数段上のレベルに引き上げているのです。

「幸せの感じ方」を知り、「小さな希望の尊さ」を知ることができるのはあのしきたりのおかげであり、その狙い通りに彼らの人間力が高まっているのがたった数秒のインタビューで伝わってきました。



現代の日本において、いや、世界的に見ても古いしきたりを変えていこうという風潮、流れが加速しているように思います。

今日、制服を無くそうだとか、多様な働き方をしようだとか様々な変革がなされているのは皆さんご存知だと思います。


そんな中で、その変化が表面的に見た上では良いと見なされるが、実際のところ損失に繋がるということは往々にしてあると思っています。

例えば、ホームスクーリングといって、家庭内で小学校や中学校のような基礎教育の代わりとなる教育を施すという考え方があります。

一見、今の時代に合う、柔軟で素晴らしいもののように思えますが、研究結果によると義務教育で学校に通うメリットは学力の向上だけでなく、同世代とのコミュニケーションにもあるらしいのです。その観点から言えば、ホームスクーリングという考え方は手放しに素晴らしいものだとは言えません。

研究結果が出ていないものでも、伝統というものにはそれなりの意味があったり、後に気づかれていなかった大きな利益をもたらすこともあるようなので、僕らも「ときには」変化に慎重になってみましょう。

先程登場したゲーテはこうも言っています。

「すべてを今知ろうとは無理なこと。雪が溶ければ見えてくる。」






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