涙の理由
「テイオーの長い休日」というドラマで、亡くなった小さな洋食屋のシェフだった父親のことをなかなか乗り越えられない親子の話があった。
その親子に対して、二時間ドラマのテイオーである熱護大五郎が自らが主演したドラマの料理人になって慰める……はずだったのだが、
「これは、おいしいけど違う。」
という反応になる。
これに対して大五郎は、
「当たり前だ。俺はお前の夫でも、お前たちの父でもない」
と言い放つ。
本当に良いシーンだ。
亡くなった夫は、父は、生き返らない。ゆっくりその不在を受け入れていくしかない。たくさん泣いてその涙の水分で不在の悲しみ薄めていくしかない。そうすれば消えないその人の記憶はたぶん楽しいものに濃縮してゆく。
私が狭義の研究対象としているヴァイシェーシカ学派というインドの哲学学派は、
無は存在する
と断言する。愛する人の不在=無は、たしかにありありと心の中に位置を占める。だとすれば、そのありありとある不在=無という存在をどう意味付けるか。
正直悲しみは癒えないが、その癒えない悲しみの意味は、たぶん時間をかければ変えていける。
祖父母や弟や、教え子や盟友。
そういう先に違う世界にいった存在=私の世界での不在たちのことを思って泣くことで、その人達の私の世界での数々の思い出が、たぶん楽しいものの方に濃縮していっている。涙で、水分と一緒に憎らしかったり嫌だったりすることを排出してしまえるから。
たくさん、泣こう。
私も、たくさん泣く。