おさらいの時代 その2
最初の海外への旅には、年上の友人の河合さんに借りた、NIKON Fフォトミックというカメラを持って出かけた。大きく重いカメラだったが、さすがに日本の高度な技術が込められたカメラで、インドの街頭や、ポルトガルの春の祭りや、ナザレの風景などを、よく写し取ってくれたものだった。
その時代の写真を探しているのだが、どこかにしまい込んであるのかまだ発見できずにいるが,追い追いそれも見つけることができるだろう。
古い写真の中には、もう使い物にならないくらいのダメージを受けているものもあるけれど、意外だったのは露出不足や、その逆に露出過多のものもスキャンしてみて、パソコンのソフトウエアを使って調整すると、何とか見ることができる状態にすることを発見した。
これに夢中になっていると時間があっという間に過ぎてしまい、ほかの用事を忘れてしまうこともしばしば。
でもフィルムに写し取っていた、一コマ一コマには、時に思いがけないものが写っていることもあり、またそれが新たに記憶の片隅から顔を出してくれるのだ。
ポルトガルではリスボンの町を縦横無尽に走る市街電車の、その海沿いを走る路線に乗ると、車内に魚の匂いがしっかり染みついていたり、幼い物乞いの子供が一緒に乗ってきたりしたことを思い出してしまった。あれはまだポルトガルが革命前のことで、貧しさが漂っていた時代だったのだ。
そしてその市街電車が、僕の暮した京都のそれとは違って、建物のそばギリギリを走る箇所があるのが驚きだった。また坂道も多いリスボンの町には、急坂を上り下りするケーブルカーや、丘に登るためのエレベータ―の塔があるなど、便利な工夫があるのも面白かった。
ポルトガルといえば、ファドの物悲しい調べや、ポルトガルギターの哀調を帯びた音色も、僕の心を打ったものだった。
あれはちょっとしたタイムスリップの感覚だった。僕はあの国で19世紀に滑り込んだ気がしたものだ。
その一方レストランでいただいたロブスターや、ボリュームたっぷりのローストビーフが、ひと皿600円ほどの安さだったのには驚いた。それは1972年ごろの東京だと、きっと数千円するような料理だったからだ。
そんな高級料理よりも、庶民的な鰯の塩焼きの滋味も美味しかったし、ヨーロッパ最西端のロカ岬のレストランでいただいた、塩ゆでの海老の美味しさには感激したものだった。
ポルトガルにはそれからずいぶん年月を重ねた後に、今度は家族で出かける機会を得た。するとポルトガルも依然と比べ随分と経済発展をしていて、1970年代のような貧困の風景は影を潜めていた。
そしてその旅では北のほうのポルトの町などにも足を延ばせたので、様々な風物に出会うことができたのだった。日本でも有名になったポルトガルの銘菓パステル・デ・ナタ=エッグ・タルトをその発祥の地でいただいたり、昔の王宮を用いた宿に泊まることができたりと、その国の奥深い魅力を知ることができる旅となったのだった。
だから今回はその2度目のポルトガルで撮った、ライカの一眼レフによる写真をここに紹介したいと思う。
リスボン近郊の古都シントラには、アズレージョと呼ばれる美しいタイルで飾られた湧き水の水くみ場があり、多くの市民がその澄んだ水の恩恵を受けていた。
ナザレを歩いていたら、大きな布に装飾を施している女性がいた。あれは家族のためのベッドカバーだったに違いない。ポルトガルはまた手仕事の国だ。
ポルトガル発祥の土地といわれるギマラインシュの教会には、金泥で美しく装飾されたパイプオルガンが燦然と輝いている。ポルトガルが世界に進出して、大いに財貨を得ていた時代に作られたものだろう。
ヨーロッパでも古いといわれる大学のあるコインブラには、世界一といわれる、美しい図書館があった。
ローカル線の駅で見かけた、なぜか懐かしい風景。
市街電車の架線の上に見えるのは、クリスマスのイルミネーション。夜ともなればこれが点灯されて街にクリスマスの雰囲気が満ち溢れる。
ヘタウマの絵のような雰囲気の、マリア様とキリストの彫刻を見つけた。
でもそれがまた素敵な味わいになっているのだった。
エンリケ航海王子たちの群像彫刻をカメラに収めていたら、どこからか小鳥が飛んできて、エンリケの帽子に翼を休めたのだった。