パトンビーチのガード犬
まるで地球を丸ごと覆っているかと思うほど、見上げる空は一面、灰色の雲。かろうじて位置を確認できる太陽に向かって、ああ、どうか燦々と光を降り注いでおくれと祈りながら、私は空を見つめ続ける。そうしているうちに雲が割れ、僅かな陽の光がプールの水面を照らし始めた。願いが通じた、と、喜んだのもつかの間。数秒後には小雨がサイドテーブルを濡らしていく。
いっそのこと、激しいスコールが降ればいい。そうすれば、雨の後にはきっと、晴れ渡る青空が顔を出すに違いない。
けれど。プールサイドのデッキチェアで、恨みがましく暗い空を見上げていても、何を願っても変わらない。今回ばかりは、太陽の女神に見放された旅らしい。年末年始の高い料金を払ってやって来たのに、これでは割りに合わない。
こちらの思いとは裏腹に、花や植物は生き生きと輝いて見える。プーケットは乾季。思わぬ恵みの雨に、はしゃいでいるかのよう。
プールをあきらめて、部屋に退散するも、窓の外は手入れの行き届いていない狭い庭が見えるだけで息が詰まりそう。こうなったら外に出て、買い物をして、適当なバーに入ってお酒でも飲むしかない。溜め息混じりにシャワーを浴びて、外に出た。
プーケットいちの繁華街、パトン・ビーチの通りを散策していると、大きな白い犬が目に止まった。小さな土産物の屋台で、ご主人らしき男性の足元に行儀よく座っている。優しい表情がなんとも愛らしく、手を差し伸べると指に鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐ。しばらく頭を撫で、じゃあ、またね、と立ち去ろうとした瞬間、のっそりと起き上がった。
犬はそのまま私たちの後に続いた。飼い主は止めようともしない。なんとか振り切ろうと早足になっても、ずっとついてくる。土産物を選んでいる時はおとなしく待ち続け、バーで飲んでいる間は入口で番犬のように鎮座している。そして、歩き出すと再び私たちの後を追う。
結局、用事を済ませてホテルのエントランスに着くまで、私たちのボディガードのように、ぴったりと張り付いて離れなかった。
翌日も、その翌日も、街へ出るとその犬は私と亭主の姿を目敏く見つけ、後をつけて回った。つかの間の飼い主になった気分で、私たちも毎夕、二人と一匹の散歩タイムを楽しんだ。
ある夜、オープンテラスのレストランに入ると、その犬も一緒に中までついて来てしまった。猫一匹くらいなら目立たないものの、彼はかなりの大型犬である。
「君の犬?」
ウェイターが聞く。
「いえ、友だち」
私は笑ってごまかしてみる。けれど、食事する場所に犬がいては嫌がる人もいるだろう。困惑する私たちの気持ちを察知したのか、彼はするっとテーブルの下に潜り込んだ。まったく吠えない犬なので、その後は気づかれることなく、無事に食事を終えた。そしてまた、いつものようにホテルまでお見送り。
そんな風にして、短い休暇は過ぎていった。
プーケットで過ごす最終日。翌日の晴天を約束するかのような美しい夕焼けが海を赤く染めていた。そんな皮肉な光景を横目に、彼と最後の散歩を楽しんだ。
そして、いつものようにホテルまで見送ってくれた彼に、
「ありがとう。元気でね!」
と手を振ると、まるで役目を終えたかのようにさっと踵を返し、てくてくと街へ戻っていった。
スマトラ地震による津波があの街を襲ったのは、三年後のことである。
彼の安否が気になったけれど、知るすべもなく、ただ無事を祈るしかなかった。
プーケット滞在中、誰とどんな会話をしたのか、まるで覚えていない。
思い出すのはあの子と歩いた賑やかな街並み。パトン・ビーチの煌びやかなネオン。
私たちの間に言葉はなかったけれど、間違いなく心だけは通じていた。旅先での交流というものが、確かにあった。
彼は勤勉で、優秀なパトン・ビーチのガードドッグ。
そして、いつまでも忘れることのない、私たちの旅の友だった。