今日、ちょっと泣けた
後任者から仕事の相談の電話がかかってきた。
でも、電話ではうまく伝わらなくて、直接会って説明したくなった。
「ちょっと行きましょうか?」
「忙しいのに悪いね。お願いします」
電話を切って、去年までいたオフィスに向かった。
狭いオフィスにひしめき合うように机が並び、部屋の空気は暖房の熱と人の熱気が混ざって、不快にまとわりつくようだった。相変わらず皆忙しそうで、誰も私が来たことに気づかない。
部屋は書類やモノでごちゃごちゃしていて、目がチカチカした。
去年の自分がフラッシュバックした。
全然できない。何をやっても空回りする。やり直しばかり。追いついても追いついても、またできないことがわいてくる。仕事という底なしの沼に落ちるよう。
こんなはずじゃなかった。もっとうまくやれると思っていた。
もっと人の役に立てると思っていた。でもできなかった。
自信をなくした。仕事の沼にズブズブと沈み込んで、光が見えなくて、苦しくて。頭は真っ白になった。文字が読めなくなった。体が重かった。
仕事に行くのも、席に座っているのも辛くて、逃げ出したかった。
でも、お金や家族のことを思えば、簡単に逃げ出すこともできず、このままずっと生かさず殺さず飼われ続けるのかと考えるたびに涙がでた。
今年の元日に願ったのは「もう先の目標なんか思いつかない。ただ、光の屈折のようにほんの少しだけでいい、進む角度が変わってほしい」ということだった。
春になり、思いがけなく異動した。好きな仕事、まあまあできる仕事になり、おかげで少しずつ自信を取り戻してきた。
そして久しぶりに、前のオフィスに行った。
後任者と仕事の話をしている間、ほんの少しだけど、息が苦しくて、心臓がドキドキしていることに気が付いた。
そういえば、後任者が座っているその席で、去年私が座っていたとき、この感覚を感じていた。今更ながら気づいた。
あのとき、こんなにも息ができなくて、心臓がドキドキしていたのに、それが普通なんだと思っていた。
不思議なもので、辛いときの渦中にいるときは、体が発するSOSに気づかない。普通じゃない状態にいるのだと気づかない。
辛い思いをしなくなって初めて、あのとき体がSOSを出していたと気づく。
だから、それに気づかなくて無理をして、とうとう本当に強制終了してしまう人がいるのだろう。
本当に辛かったね。よく我慢してたよね。体が SOSを発していたのに気づかなくてごめんね。
無性に自分に申し訳なくなった。
本当は辛いと感じているのに、自分の頑張りが足りないんだ、もっと頑張ればできるようになる、できない自分がダメなんだと自分を責めて、痛めつづけていた。もっと頑張っている人がいる、もっとできるあの人のようにならなければならない。もっと辛い人がいるんだから、私なんかが辛いなんて愚痴っちゃダメだと、辛いということさえ禁じていた。
ほんとごめんね。もっと優しくしてあげればよかったね。辛いならもっと早くに辛いって言えばよかったね。友達や家族にも「辛くて仕方ないんだ」って言えばよかったね。自分の辛さを他の誰かの辛さと比べて、向こうが上だとか、こっちが下だとか勝手に判断して、自分を追い詰めてた。本当にごめん、自分。
本当は、「大丈夫?」って心配してもらいたかったし、「もう十分頑張っているよ」って言ってほしかったし、「できなくてもいいんだよ」って言われたかった。甘いと言われるんじゃないか、そんなんでどうすると叱られるんじゃないかとビクビクして、本当のことを言えなかった。
自分がダメで、甘ちゃんで、何にもできない人間なんだと認める勇気がなかった。
今は、仕事が変わっただけで、本当は何にも解決していないのかもしれない。
私の話を聞きながら、部下に的確な指示を出す後任の彼を見ていると、ダメで、甘ちゃんで、何にもできかった自分を認めるのはちょっと悔しかった。
自分の能力のなさを認めるのは苦しくて、どこかでまだ「やればできたんじゃないか」とも思ったり、自分は本当に真剣に一生懸命やっていたのか、ただ努力が足りなかっただけなんじゃないかと思う。
でも体は私の限界を知っていた。
息苦しくて、心臓が早鐘を打ち、お前にはもう無理だと告げていた。
仕方ない。それが今の私の限界なのだ。
潔くできる人に任せるのが正解。私には私の道がある。
そう気づけたことは、もしまた辛いことにぶち当たったとき、それを乗り越えるための役に立つのではないかと思う。
それから、私と同じような人の力になれるかもしれない。
そう思うと、辛かったことも無駄ではなかったのかなあとも思う。
ここ数ヶ月泣いたことなんかなかったけど、久しぶりに、今日、ちょっと泣けた。
よく頑張ったよ、偉かったよ、自分って。