二千年前の人から得る「悩むこと」への肯定 ~『自省録』書評~
「自省録」を読んだ。
古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウス(121年-180年)が、数行の独り言を12巻に渡って綴った本だ。現代で言えば、SNSの鍵アカウントで呟いていた内容が、後世で発掘され「これはいい!」と書籍化されたようなものだろうか。僕が彼なら「殺してくれ」と思うだろう。
それはそうと、内容には多大な感銘を受けたため、書評として整理する。
一言で評するなら「人は二千年前にも生きづらさを感じ、克服を試みてきた。それを知ることで、今現代を生き、悩むことに肯定を得る事ができる本」だろうか。
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マルクスは軍事より学問を好む性格だった。しかし、彼はローマ皇帝として人同士の争いを主導する立場として生まれついた。そのような日々の中、彼は「君(私)は何を悩むのか」と自問し続け、ある程度の信念を形成し、自己と社会に挟まれながらも2本の足で立つ。
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素直に好きだと思った文章と、対する所感を以下に記す。
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ー 万物はそれぞれある目的のために存在する、馬も、葡萄の樹も。なぜ君は驚くのか。太陽すらいうであろう。「自分はある仕事を果たすために生まれた」と。その他の神々も同じこと。では君はなんのために?
ー 自分に起ることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。それよりも君にふさわしいことがありえようか。
温和な性格から、皇帝として生まれついたことを恨むことが幾億回とあっただろう。
その度に生まれを含め、人として生まれついた自分を容認し、自分のいま果たすべき事はなにか?と自問することで顔を上げてきたに違いない。目的論的な思考は、悩み動けなくなった状態から脱却するために、非常に強力な武器だと思う。
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ー 全ては主観にすぎないことと思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前に現れるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江。
ー 主観を外へ放り出せ。そうすれば君は助かる。誰が放り出すことを妨げるのだ。
他人を含む自己の外に対し、怒り、恨み、羨み、悲しみなどを抱くことがあったのだろう。
そのような出来事に対し「それは君の魂に影響があったのか?」と問い、その感情が魂ではなく主観から湧き上がっていることを自覚する。要は「物事は捉え方次第、出来事は自己の外でそう感じているのは自己」ということだ。
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ー 自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君が絶えず掘り下げさえすれば、絶えず湧き出るだろう。
いま実行していることが「善い」かどうか、悩むことがあったのだろう。
その度に「万物は果たすべき目的を内包して存在する」と目的論の視点から、自己が「すべき」と思うことを素直に見つめよと言い聞かせる。人として生まれつき、いま「すべき」と思うのならば「善い」のだろうと捉えることで、その瞬間の一歩は強くなる。
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ー 変化を恐れる者があるのか。しかし変化なくしてなにが生じえようぞ。~。君自身だって、木がある変化(燃焼)を経なかったならば、熱い湯一つ入れるだろうか。もし食物が変化を経なかったならば、自分を養うことができるだろうか。そのほか必要な事柄のうちなにが変化なしに果たされ得ようが。君自身の変化も同様なことで、宇宙の自然にとっても同様に必要であるのがわからないのか。
自身の変化を恐れることがあったのだろう。
その勇気を得るために、彼は人も自然なのだから、変化することはなにがおかしいのか。自然は絶えず変化するのに、君は変化しないのかと自問した。個人としてだけでなく、人の集団も宇宙の自然の一部だと捉え、宇宙の自然の一部として果たすべきことは何かを模索していた。
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ー 未来のことで心を悩ますな。必要ならば君は今現在のことに用いているのと同じ理性を携えて未来のことに立ち向かうであろう。
ー 遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
未来について憂う事があったのだろう。
いま現在、自己を理性によって律せているならば、なぜ未来にできないのだろうか。自分は宇宙の自然の一部なのだから、過去になれば流れ、忘れられるだろう。明日死んでも役目を「果たした」と言えるように、いまこの瞬間を理性を持って生きるべきだと考えた。
未来を憂うことは引力が強く、不確定要素が多いため消耗が激しい。その消耗を避けるためにこの考えを用いたのだろうか?
僕は違うと考える。
指導者として決断すること自体も、膨大なエネルギーを要する。彼は消耗を避けるためではなく、決断のためにこう考え、未来を恐れる自身を奮い立たせたのではないだろうか。
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ー 善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ。
僕も「善」とはなにかを悩み、考えることを優先され、足を止めてしまう時がある。きっと彼にもそんな瞬間があり、変化を恐れ進まない自身への苛つきが、ふと口をついてしまったのだろう。
200ページに渡る独り言の中で、共感が強く、一番好きな言葉だ。
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哲学を学問として学ぶことは難しいが、「自省録」を通じてマルクスの哲学を知ることは比較的易く感じる。
それはきっと、現代の僕らと同じ等身大での悩みが、人として言葉で素直に綴られているからだろう。
いま、この瞬間の自分や他人を許容することが叶わず、辛さを感じ、悩む人にはおすすめできる本だと思う。
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論語に
ー 吾十有五にして学に志す。
ー 三十にして立つ。
ー 四十にして惑はず。
ー 五十にして天命を知る。
ー 六十にして耳順ふ。
ー 七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず
というフレーズがある。
「自分はなにを果たすために生まれてきたのか」を自問し続け、その解を自己に得たときに、人は「天命を知る」のだろう。
ここ最近、自分は天命を受けるのに五十まではかからなさそうだ、と感じることがある。といっても、その瞬間が来るまでは分からないだろうから、慢心することなく、自分と向き合い続けていこうと思う。
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