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【短編】チャーリー・パーカーの墓さがし

真夏の暑い昼下がり、カンザス・シティの墓地で、Mと僕とで手分けしながら草ぼうぼうの平らな墓石の中から、その上に斜めの棒に羽ばたいている鳥がのっているのを探していた。蝉がうるさく鳴いていた。

墓の写真が載った本が正しければ、この目の前の藪に囲まれた100m四方くらいの範囲にその墓はあるはずだった。

Mの新婚の妻Bは、今朝、僕が車でMを迎えに行ったら、けっこう怒っていた。

「結婚式の翌日に、うちの旦那をひっぱりだして、誰かの墓さがしなんて何考えてるの!」

顔はいつものように笑っているようにも見えたが、言葉はきつく、明らかに怒っていた。

「でも、チャーリー・パーカーのなので」と言い訳をしたが、「誰であってもよ、墓探しなんて」とぴしゃり。「1時間だけね。それで帰ってきて」

Mは、大学時代のジャズ研の同級生。1990年代前半、僕は大学卒業後に会社勤めをして早6年くらいがたつ頃だったが、ニューヨークに仕事で駐在していた僕のところに、Mからカンザス・シティで結婚式やるので自分のBest Manとかいう友人代表のようなのをやってくれと封書が届いた。

Mの奥さんとなるカンザス・シティ出身のアメリカ人のBとは、その6年前くらいからの知り合いでもあった。当時、東京でMが事務処理のバイトをしていた英会話学校の先生だったのがB。当時Mは大学院の学生だった。Bは、小柄で灰色だったか緑の目で、茶色の髪をショートカットにして、絵に書いたようなアメリカ人?で、やたら明るかった。

彼らが付き合い出す前だったか、あるいはもしかしたらそのきっかけをつくったことになったのか、その頃、3人で居酒屋に飲みに行った。

”I have Never"という、アメリカのアホな酒飲みゲームがあって、自分がやったことがないことでその場にいる人がたぶんやったことがある面白いことを言ってグラスを上げる。それで、もしそれをやったことがある人がいたらその人はグラスを飲み干す。もし誰もいなかったら、それを言った人が責任とって飲む、そんなゲームをやった。

「異性に頬をビンタされたことがない」とか、「告白したら、両思いだった事がない」とか、他愛のないネタだったが、やはり毎回誰かが飲むことになるので、かなりハイペースで酔っ払った。たしか渋谷で飲んだったんだったか、僕はタクシーで彼らを残して家へ帰った。後で聞くと、Bは飲みすぎて気分がわるくなり、Mは一晩中彼女を介抱していたと言う。Mという奴は一見無愛想なやつなんだが、実は他人に優しいし、面倒見はとてもいい。ピアノはへただが、とても誠実ないいやつだった。

それで、彼らがその後付き合っていたのをなんとなく知っていたが、僕がメキシコいったりですれ違いで、ニューヨークに来てからはちょっと音信が途絶えていた。そんな折の手紙。今と違ってメールはなく、国際電話はすぐ千円、二千円かかる時代。赴任した直後だったが、仕事を休んで数日行けそうだったので、よろこんで、という返事を書いた。

それまで知らなかったが、カンザス・シティという市は2つの州にまたがっている。ミズーリ州のカンザス・シティと、カンザス州のカンザス・シティ。Bの実家はミズーリのほうだった。そしてもっと嬉しい発見は、ジャズの巨星サックスのチャーリー・パーカーが生まれ育った街だったということ。たしかに彼の作曲の「カンザス・シティ・ブルース」という曲があった。

結婚式は、Bの家族が通っていた小さな教会で、家族や親しい友人だけで祝う、こじんまりながらとても暖かい感じの式だった。それまで日本で派手な結婚式しか出たことがなかったので、その手作り感が心温かく、とても良かった。当時は僕も独身だったので、自分もこんな結婚式ができればいいがなあと密かに思った。

たしか日本からは、Mとご両親とMの妹、そしてニューヨークから僕と、Mの音楽友達のベーシストのAさんとその奥さんのピアニストのYさん。新婦側のBest Woman(というのだったかな)は、Bの日本留学時代の友達のアメリカ人のS。Sはとても可愛い感じの、性格の良さそうな女性だった。ちょっとわくわくした。こちらが気後れしてしまいそうな可愛さと性格の良さだったとも言えたが。Bのご両親は離婚されていて、学校の教師のおかあさんとBの弟がBの家族。おとうさんは再婚した奥さんと来ていたが、めでたい席だったが、微妙な緊張感があった。あるいは僕がそういうシチュエーションに慣れていなかったから、勝手に緊張してしまっただけかもしれないが。

なにせ1993年の話だから、すでに27年前。記憶が薄れてしまってきているが、教会のアップライト・ピアノで新郎が数曲ジャズを演奏して、”I am getting sentimental over you"というスタンダードをちょっとセロニアス・モンクぽく弾いていたのを覚えている。なかなか、その場にぴったりの心にくい選曲。あと、誰かの手作り?のウェディング・ケーキがやたら美味しかったのを覚えている。

それで、結婚式を終えて、それから夜は、たしかカンザス・シティのダウンタウンにくりだして、名物のスペアリブを食べたりした。何故か馬車に乗った記憶がある。座席で空を見上げたら、意外に星が見えたのを覚えている。

そして翌日、新婦に怒られながら、チャーリー・パーカーの墓参りに行く。当時僕がもっていた彼の写真集のような本にその上に鳥が舞っている墓石の写真と墓地の名前が記されていたのが手がかり。

1時間、2時間と手分けして探したが、無い。じゃ、あと30分こっちも、と探したが、無い。それで、暑いし、喉も乾いたので、さすがに諦めて、引き上げることにした。何だったんだろうか、この数時間は。

墓が見つからなかったというと、Bは、呆れて笑っていた。なにやってるのあなたたちと。

そして最終日3日目の朝、午後3時のフライトが予約してあったので、ゆっくり起きて、朝食にステーキ朝食というのがあったので、さすがアメリカと思って食べた。

墓が見つからなかったのがちょっと残念で、ちょっと思い立ち、ウェブサイトもグーグルも無い時代、ホテルの部屋にあった分厚い電話帳で新聞社をさがしてみる。カンザス・トリビューンだかそんなような名前のローカル紙の会社があったので、思いを決して電話してみる。

「日本から来たチャーリー・パーカーのファンなんですが、墓参りをしたかったので昨日リンカーン墓地で探したんですが見つからなかったたんですが、それについて誰か知っている人はいないでしょうか」。我ながら、おかしな電話をする。

電話がちょっと保留になった後ででてきた、文化欄担当らしきおばさんがいう。

「あなた、2週間前だったらあの墓あったのに」

よく聞くと、その墓地で墓石の盗難事件があって、装飾が施された墓石かなりの数が盗まれたという。とくに有名人の墓を狙ったわけでなくて、高価そうなものが全部盗まれたという。そういえば、装飾がもぎ取られたような墓石があったような。

それで親切なおばさんは、ここにいったらいろいろ聞けるかもしれないと、チャーリー・パーカー・ファウンデーション(財団)の電話番号とその代表のおやじの名前を教えてくれる。

すぐにそこへ電話すると、Directorだというおやじがでてくる。こちらはもう一度、日本から来たファンですが墓参りしたかったんですがうんぬん説明する。

それで、今日の3時のフライトでたたないといけないんだというと、ちょうど財団は市内から空港に向かう途中だから、時間があったら来たらという。まあ、財団っていっても、子供の音楽教室みたいなもんだけどね、とおやじ。

ちょっとワクワクして、ホテルをチェックアウトしてレンタカーを走らせる。正直、その住所はおそらく治安が悪そうな感じの地域。カーナビなんてないので地図を片手に、うろうろしながら目的の住所を探して、適当なところに路駐する。黒人居住地区という感じで、レンタカーの東洋人は目立ったかなと思うが、まあそういうリスクはとろうと、車を止めて、財団を探す。

財団はたしかに地元の音楽教室という感じのところだったが、電話で話したDirectorが歓迎してくれた。ちょっと人生に疲れたという感じがする大柄のおやじだったが、ソフトスポークンでいい人そうだった。わざわざ墓を探しに来たとはへんな東洋人だなと思ったんだろうか、握手すると笑っていた。

「墓石の件は残念だったですね。あれは、いい装飾の墓だった、Birdが舞っているのがついててね。盗難は、とくにチャーリー・パーカーのを狙ったわけでなく、高級そうなのはそこら中とられちゃったみたいだ」と言う。

財団はとくにモダン・ジャズの教室をたくさんやっているというわけでもなく、地元の子供たちがピアノとかそこで習ったりする場所のようであった。彼の事務室みたいなところで小一時間話したのだが、せっかく来てくれたからと写真を数枚くれた。

チャーリー・パーカーが死ぬ数日前にとったという顔を隠した後ろ姿の写真の数ショット。なま写真か!と、ありがたくいただいた。それで、少ないですがと持っていた200ドルだったか300ドルだったか現金を墓石の復興の一助にでもと財団に寄付した。

後に、それを自慢げに知り合いにみせると、その写真、いろんな本にでているし、写真自体がなまというよりもコピーじゃないの?顔も写ってないから、チャーリー・パーカーじゃないかもしれないよ、と茶化す。自分としては、この写真は、チャリー・パーカーを死ぬ数日前にカメラを嫌がる彼を追って撮ったネガから直接焼き付けられたなま写真なんだ、と大切にしている。たしかに写真は後ろ姿で、追いかけるカメラからチャーリーは逃げている。

たぶん、チャーリー・パーカーはその時の僕らの墓探しの経緯をどっかでみていて、にやっとして、うん、おまえね、グット・トライだったけど、俺はそう簡単には捕まらないんだよね、と鳥のようにぱっと羽ばたいて飛んでいったんだと思う。

帰りのフライトで、CDからダビングしておいた彼の演奏を聴いた。

なぜか、この↓スタンダードのオール・オブ・ミーをピアノのレニー・トリスタンのアパートかなんかで演ったのが心に響いた。録音状態も悪く、なぜか通常のキーCではないキーでの演奏で、メジャーの曲なのに何故かマイナーなフィールのソロ。正直ジャズのアドリブ理論は難解すぎて僕には理解できてないんだが、このソロで何箇所か「切ないな」という音使いがあるなとその時気がついた。あとでキーボードでたどってみると、7th コードの b9 だというのがわかる。ジャズ特有の緊張感がある響きのテンション・ノート。

墓は見つからなかったけど、チャーリーが「b9th の切なさ」を教えてくれたという旅であった。

帰りのフライトの窓から見えた夕焼けが、やたらきれいだった。


米国ミズーリ州カンザス・シティ




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