『ギャンブルのパラドックス』
「胴元がいる限り、ギャンブルの期待値はマイナスでありプレイヤーにとって損な行為である。なのに何故、公営競技は成り立っている?」
『ギャンブルのパラドックス』は、法的制約と経済学的合理性を超えた人間行動の複雑な一面を照らし出す問題である。
このパラドックスは、賭博行為の構造に内在する期待値の逆説性を軸としつつ、日本における賭博の法的枠組み、経済学の伝統的理論、そして『サンクトペテルブルクのパラドックス』と呼ばれる古典的な期待値の問題とを関連づけて理解することが可能である。
1. 日本における賭博の法的枠組みと構造的特性
まず、日本において賭博行為は公営競技(競馬、競艇、競輪、オートレースなど)に限定して許可されている。これは、一般的な賭博行為が刑法により禁止されていることによるが、例外的に国家管理のもとで胴元を立てた競技が合法化されているためである。
賭博の胴元は「控除率」を設定し、参加者の賭け金から一定割合を取り分として差し引く構造であり、結果としてプレイヤーの期待値は確実にマイナスとなる。
例)控除率20%の賭け式において、100円を賭けた時の期待値は
100(円)×0.8=80円となり、20円マイナスである。
このように、日本において賭博は国家の管理と監視下で実施され、控除率の存在がマイナス期待値を前提とした構造を築いている。したがって、個人が理性的に行動すると仮定するならば、マイナス期待値に基づくギャンブル行為に参加する動機は希薄となるはずである。
2. 『サンクトペテルブルクのパラドックス』
このギャンブルにおける逆説的状況は、期待値理論に挑戦を与えた『サンクトペテルブルクのパラドックス』に関連して理解されうる。概要は以下の通り。
このパラドックスは、無限に増加する報酬が期待値に反映されるという一見理論的な現象*¹であり、合理的判断のみに基づけば人は高額を賭けてもよいとされるが、現実にはほとんどの人がそのような判断を行わないことから生じる問題である。
人は、期待値が無限大であっても「直観的に受け入れられない」報酬に対しては実際の賭け金を抑制し、理論と現実の間に乖離が生じる。この現象は、純粋な合理的期待値の計算が現実の意思決定において常に支配的ではないことを示しており、日本の公営競技における負の期待値にも関わらず参加者がいるという状況と重なる。
3. 伝統的経済学の限界と人間行動の多様性
ギャンブルのパラドックスは、伝統的な経済学が想定する合理性の限界を露わにするものでもある。
伝統的な経済理論において、合理的な人間は期待値がマイナスである行為を回避するはずだが、現実には公営競技は社会的に広く受け入れられている。これは、個人が期待値に基づいた合理性よりも、スリルや自己効力感、あるいは希少な勝利体験への期待といった感情的要因を優先させるためである。
経済行動が純粋に合理的判断からのみ形成されるという前提は、こうした人間の非合理的な行動によって限界を露わにし、行動経済学や心理学的視点の必要性をも浮き彫りにする。
以上を総合すると、『ギャンブルのパラドックス』は、賭博の法的枠組みと、期待値理論に基づく経済合理性、そして人間行動の非合理性が交錯する複合的な問題であるといえる。このパラドックスは、伝統的な経済学が説明しきれない側面、すなわち人間の心理的要因や感情的報酬が行動を支配する場合の存在を強調し、経済学と倫理学、さらには行動科学における多角的な分析を通じてのみ解釈されうるものであろう。
このようにして、ギャンブルのパラドックスは、合理性と非合理性を超えて人間行動を捉える新たな視座を示唆するものである。
パラドックスの解決策
『こんなパラドックスなどくそくらえ!!!』
ギャンブルは損!
結果、今年の収支は
投資 2,900円
回収 24,510円
回収率 845%
だった。くそくらえ!と言った割に金額はしょぼいのだが、当たりは当たりである(あとあんまり高額だと税金が…)。
当たり前だが、このレースしか賭けていない。なのでこのレースでの収支がそのままの利益である。
何故それに賭けたのか理由は言わないが、後押ししたのは名前だろうか。麒麟児…カッコいい。投票所のBGMのテンポが早くなるのに比例して取り憑かれてしまった。
「胴元がいる限り、ギャンブルの期待値はマイナスでありプレイヤーにとって損な行為である。なのに何故、公営競技は成り立っている?」
それは生きた人間(動物)が行うから。合理性だけでない、ときに生産者や関係者の”情熱”という非合理的感情がプレイヤーである客を突き動かす…のかもしれない。いや、それはある側面を過剰に美化しているだけかもしれない。あるいはもっと単純な…
…まあいいや、勝てればなんでも。……え?「今後筆者はギャンブルするのか」って?
そりゃあ、『ギャンブルのパラドックス』に従ってしませんよ、”これからは”。