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自己責任論

これから書くことはあらゆる学問的文脈に結びつかない、自分の勝手な社会の見方なので、論点のズレ、観点漏れなどは指摘していただきたいけれど、学問的にこれは間違っていると言われたら、そうなのかとしかならないという免責を添えさせて頂きます (ただ、教えていただければ嬉しいです)

動機

世の中、あらゆる形で自己責任が求められる。仕事の文脈においても、「雨が降っても自分のせいと思え」みたいな言説があるくらいに、その考え方は浸透しているし、現代社会における前提の一つなんだと思う。

一方、その自己責任論みたいなのが、雑に扱われているのをSNSなどでよくみる。外国のDJさんのフェスで遭った被害の件に関して、「服装が悪い」などという自己責任論を見て、変な意見だなと思いつつも、それ以上に「自己責任論とは」みたいなことを考えさせられた。ここでは、結果に対する自己責任論にのみ焦点を当ててみる。「そんなことしたら、こうなっちゃうよ」的な、未来に焦点を当てた自己責任論は扱わない。あらゆる結果に対して一般的な「こうなったのはあなたのせいだ。自業自得だ」的な文脈における自己責任論を扱う。「自己責任論ってなに」的な定義はめんどうなので飛ばす

自己責任論の分類

いわゆる自己責任論にも文脈によっていくつか種類があると思い分類

  1. 個人が自分自身に求める自己責任論

  2. 個人が全くの他人に求める自己責任論

  3. 個人が親しい他人に対して求める自己責任論

  4. 法律が個人に求める自己責任論

1と3には肯定的な立場であるが、2に対しては否定的な立場であり、2が蔓延っていることが気に食わないので、この文章を書いている。4に関しては、世の中そういうものだよね、以上の意見は少なくともここでは無い

  1. このプロジェクトがうまくいかないのは自分のせいだ

  2. 彼女があの事件に巻き込まれたのは、あんな格好をしていたからだ

  3. お前が体重増えないのはしっかり食べていないからだ

  4. あなたは人をひいてしまったので懲役30年です

そもそも自己責任ってなんのため

そもそも自己責任論ってなんのためにあるの?という話から

法律的な文脈

基本的に自己責任論は、社会の中で起きた問題の責任を個人に帰属させる、という単純化により、社会を維持するための制度を設計する文脈の中で初めて有効になると考えいる

自動車でAさんが誰かをひいてしまったとする。その日その時のAさんにどんな事情があろうと、Aさんに責任は発生する。それは責任の所在を決めないと物事を解決できない現代社会の仕組みそのものによるものである。つまり、法律が人に求める自己責任である。( 分類における4 )

自己成長的な文脈

また、もう一つ全く別の文脈における意味もある。先ほどの分類における1と3は、「個人の成長を促すこと」を目的として存在する。最初に出した「雨が降っても自分のせいと思え」そのものであり、個人に対してコミットしている存在 (本人自身あるいは近くで本人を支える存在) であれば、その自己責任を求めるのは正しくまた意味のある行為なのではないか、というのが自分の感覚。他人に自己責任を求めるときは愛と共に。これがちゃんとできる人はほんとにすごいし、羨ましいなと思う

自己責任論の本来的な性格

以上の2点が、自己責任論の存在意義であるとかんがえる。しかし、自己責任論は得てして、その正確性に難がある
その人がその犯罪を犯してしまったのは、その人自身以外にも必ず要因はあるし、そのプロジェクトが上手くいかないのも、その人自身に全ての原因があるわけはない

つまり、自己責任論は、物事を単純化せざるを得ないその性質上、物事の事象の原因をそもそも正確に反映し得ないものであるし、社会を維持する法律を支える考え方或いは、個人が成長するための手段でしかなく、道具としての域を出ない

他人が他人に求める自己責任論

だから、そもそも、自己責任論という考え方を物事に適用すること自体、その性質上、不正確であることが前提となる。不正確性ゆえに、手段や考え方などの目的ありきの道具として、初めて成り立つ

一方、分類の2における自己責任論に道具としての目的はあり得るのか

  • 貧困のままなのは、努力していない本人のせい

  • ジャーナリストが紛争地に行き捕虜となったのは、危ないと知ってて行った本人のせい

  • 性犯罪の被害に遭うのは、服装など管理せず自衛できていない本人のせい

自分にはその目的がわからなかった、他人を啓蒙するつもりなのか
自己責任論が社会での、人としての正義や規範として機能していて、その原則に従うのが当たり前ということか
前者なら余計なお世話だし、後者なら自己責任論が自己目的化してしまっている

その人のあらゆるコンテキストを理解していない赤の他人が、そういう目に遭うのは本人が悪いって言ったところで、啓蒙にはならないし、何が解決するのかと言ったら何も解決しないし、何も良くならないし、その人をさらに傷つけるかもしれない
それで問題が改善・解決するのであれば、赤の他人であろうと、自己責任を求めればいいと思うが

「その人が苦しんでいる」っていう事実は、ただただシンプルに悪いことなのだから、その事実にフォーカスして、個人個人は誰かに責任を求めすぎず、仕組みや環境の方に原因を求めてそれらをより良くしていけるような頭の使い方をしていければいいなと思う

おわりに

なかなか難しいけれど、個人としても、全体としても、誰が悪い、何が悪い、じゃなくて、その人が苦しんでいるのなら、それは悪いことだよね、っていう前提に立って物事に寄り添って、責任を求めるのはあくまで手段っていう雰囲気がもっとあったらなと思う

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