秘書を持つのはぜいたくなことか?
1つ前の記事で、キリスト教の教会や宣教団体にも秘書がいたらいいと思う、と書いた。
日本のプロテスタント教会は少人数で、牧師以外のスタッフがいる教会は少ない。信徒の目でざっと見る限りでも、牧師たちの日常業務は、礼拝説教の準備や信徒のケアなどの牧師業だけでなく、電話対応・書類作成・備品の買い出し・業者とのやり取りなど、多岐にわたる。
牧師1人で回っているうちはもちろん問題ない。教会の規模が少し大きくなってくると、ではもう1人誰かを迎えましょうということになる。
その場合に、どんなスタッフを迎えるか。それは「2人目の牧師」なのである。伝道師といったり、副牧師といったり、ユースパスターといったりするが、要は「聖書の話や人のケアをする専門職」をもう1人増やすのであって、事務仕事を担当する人を迎えるわけではない。
その2人目は、神学校を卒業して、これから牧師としてやっていこうと神学の専門知識と使命感を持って赴任する。しかし現場で待っているのは、1人目の牧師の手に余るようになった事務仕事。多くの場合にそれは「牧師修行」の一環として当たり前のように受け入れられている。
これが日本以外のキリスト教会だと、2人目のスタッフは「牧師の秘書」なのだそうだ。また、キリスト教団体の国際会議で、海外の総主事たちは全員自分の秘書がいて、秘書がいないのは日本から参加した自分だけだった、という話も聞いた。
日本で牧師が秘書を持つといったら、おそらく教会員からブーイングが出るだろう。そして、こう言われる。「先生、そんなぜいたくな」。
秘書を持つのはぜいたくなことだろうか?私は前記事に書いたように、専門職の人は、その与えられた専門分野に注力することが最大の貢献になると考えている。得意でない事務作業にえらい時間をかけたり、逆に事務作業ばかりめちゃくちゃ得意ですっかり仕事をした気になってしまうよりは、神学校で学んできた聖書の解き明かしに注力したり、人の相談に乗ったりしていただきたい。
日本人が持つ秘書のイメージが、「秘書を通してくれる?」みたいに偉そうな社長さんや政治家だったり、容姿端麗だけど何をしているかよく分からない秘書がお茶を出すドラマのワンシーンとか、そのあたりで止まっていることも「ぜいたく」と思われる原因だろう。
秘書サービスにも「松竹梅」のように段階があり、サービスを受ける人がどれぐらい忙しいか、対外的にどう見られるのがふさわしいか、どこまで他人に任せたいか、によって秘書が引き取る仕事の内容もやり方も変わってくる。「秘書を通してくれる?」は松コースの上。最低限の梅コースでも、上手に使えば必ず専門職の生産性を飛躍的に高めることができる。
2006年に経営コンサルタントの波頭亮さんが書かれた「プロフェッショナル原論」は、弁護士、医者、会計士など「プロフェッショナル」の本来あるべき姿と仕事のしくみ、その世界独特の掟や規範を示した名著である。そこでは、プロフェッショナルの本質はその言葉自体に隠されていると言われる。Profess - 宣誓、その職業に就くために神に誓いを立てなければならないほどの厳しい職業。厳しい修練を積んで高度な知識や技術を身につけ、公益への奉仕という強い使命感を持つ人々、それがプロフェッショナル。
私がこれを読んだのは秘書になって10年目ぐらいの時で、自分がサポートしている人々が本来どのような職業規範を持っているかを知り、彼らの公益への奉仕を最大限にするために、余分なものをすべて引き取る秘書としての立ち位置を認識し、この仕事でやっていこうと思う重要な節目となった。(文庫本は絶版、Kindle版あり。)
厳しい修練を積んで、神に誓いを立てる。これは牧師の献身そのものではないか。そもそも先生と呼ばれる人は皆、プロフェッショナルだ。プロフェッショナルとして本来の奉仕ができないほど忙しくなったら、せめて梅コースの秘書でも選択肢に入れられるようになることを願う。呼び方は事務主事でも、パートタイムでも良い。専門職の肩書で不本意ながら秘書をやってしまう人が日本の教会から減りますように。
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