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イタリアのボランティア事業

学生時代、学校から「夏休みを利用してボランティアをしてみてはどうでしょう」と提案されたので、僕は7月の終わりに近くのボランティアセンターを訪ねた。

まずは塾の一室のように机と椅子が用意された部屋で十数人が説明を受ける。

どのような種類のボランティアがあって、一人ひとりに合ったボランティアをマッチングしたい、

そんな雰囲気が始まりそうだった矢先、この場を取り仕切るボランティアのプロが放った言葉は、

「あー、学生が進学を有利にするためだけにボランティア経験をしに来るんですけど、困りますねえ」

みんなが耳を疑った。

学生だけでなく、大人も、なんとなくみんなで顔を見合わせるくらいの衝撃だった。

それを言って何になるのか、想像がつかないのだろうか。

入口は進学のためであってもボランティアを経験させるうちに将来人助けをする仕事に就くきっかけを与えるのがあなたの役割なのでは。


大人の思考でいこう。

これまでにもあからさまに「進学のため」な学生ボランティアをたくさん見てきたのだろう。

この日の僕みたいに、説明だけ聞きに来て実際ボランティアを具体的に探すに至らなかった人もたくさんいたのだろう。

自分の言葉で人を先導することなんていくらでもできる、でもその思考がない人だっている。

その人自身がボランティア団体の人間として合っていないのか、人が嫌いなのか、人生にお疲れなのかもしれない。

言葉に優しさを失ってしまう人にはそれなりのきっかけがあって、自身の度重なる心ない言葉のせいで次々とチャンスを逃していることに気が付かない。

そういえば近頃誰も自分を助けてくれない、競合他社はあんなに盛り上がっているのに。

たくさんの人がその人から離れることが、間違いに気がつくきっかけになれば良い。

そういう人を支えるボランティアも必要かもしれない。

日本のボランティアのイメージも実態もまだまだ遅れていることがよく分かる出来事だった。

多種多様な経験を積んでおくことは大事だ。

多種多様な場面で、臨機応変に対応できる。

何より、苦境に立たされて余裕を失っている人の気持ちに寄り添うことで、強い言葉で何かを言われても、自分が傷つくことなく状況的に仕方の無いことだと流すことができる。

それが僕のボランティアとの向き合い方だったが、イタリアのボランティアの仕組みには良い意味で驚くばかり。

心に余裕を持ったまま、美味しいご飯にユニットバス、手足が伸ばせる簡易ベッド。

僕であれば、復興後に仕事で連携が取れそうな人を探して情報交換をする余裕まで生まれてしまいそうだ。

イタリアに住みたいな。

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