雪組ベルばらの烙印に宝塚の責任を問う
雪組公演『ベルサイユのばら』-フェルゼン編-の紹介番組で、烙印を見せるジャンヌが放送された。
焼きごて、つまり熱した金属を押し当ててつける火傷だ。
ヘアアイロン事件を連想させるために、長年出さなかったジャンヌを復活させたのか。
火傷自体は原作通りだが、刑罰では罪人の額に行うのが基本らしい。
これでは「罰」として正統性を主張しているようだ。
合意書で故意ではなく気遣い・謝罪もあったとされているのだから、宙組上級生の擁護にもなっていない。ただ故人や遺族を揶揄しただけである。
また原作でジャンヌは詐欺師という加害者なのに、被害者としてでっち上げデマの醜聞……つまり週刊誌のような本を次々出版する。
最後は転落死だ。
遺族である102期生は集合日付で退団しているが、一応は出演予定だった。
トップスターで退団公演の彩風咲奈も、ジャンヌ役の音彩唯も遺族と雪組で共に過ごしてきた。
トップ娘役の夢白あやに至っては、故人の同期で遺族の予科本科。故人と宙組で育ち、遺族と雪組で過ごしている。
まだ喪が明けたわけでもない。人選はもちろん、タイミングとしてもさすがに駄目だろう。
宙組の事件について、遺族の対応に疑問点も多い。宝塚歌劇団に人生を捧げてきた大大ベテラン作家として、色々言ってやりたい気持ちも分かる。
「メディアや弁護士に舞台で応戦する」というのも、泥沼裁判よりは穏便に済ませている。
ただ星組公演『記憶にございません!』は度重なる会見での失態とバッシング、雪組はヘアアイロン事件。
パロディにしても、組織的なごますりと陰口でしかない。スケールが小さくてセコいのだ。だからやるのに勇気はいらないが、意義も無い。
今、まず対処すべきは「自殺者は清廉潔白」と神格化する傾向だ。
「自殺者の主張は正しい」となることが、死を選ぶ後押しになっているのではないか。
「自殺の美化」は宝塚だけでなく、演劇の世界全体で背負うべき罪だ。
大多数の思想や宗教で「自殺は大罪」。それなのに「自死に救われた」ように、幸せそうな表現をしてきた。
愛の証明や、社会運動として意義があるような描写さえある。
今の小説や漫画など流行りの作品で「自殺の美化」はそう見ない。自爆攻撃のような特攻シーン以外、自殺者に清廉潔白なイメージもつかない。
しかし演劇では「自殺の美化」を続け、目の前で演じるという最も衝撃を与える形で表現してきた。
飛び降りは一般的に、劇場型の自殺とされる。
「死を見せる」ことが、死ぬことより目的になってるのだ。
命を使って何かをやり遂げるという感覚になり、自殺への罪悪感も失われやすい。
この感覚を植え付けたのは、数々の「名作」だろう。
宝塚がすべきは「自殺」という行為そのものを否定し、救われるという考えを批判することのはずだ。
個人を持ち上げたり叩くことではない。
作品というのは演者や演出家はもちろん、劇団全体からのメッセージである。
宝塚歌劇団が何を思い、世間にどんな影響を与えるか。
会見の発言とはまた違った、責任を負うべき表現だ。