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味方=無罪ではない

有名人一般人、フィクションノンフィクションに限らず、自殺自死について語られることは多い。
原因は人それぞれ、後で色々想像しても仕方ない、不謹慎だ、等の理由で一般社会で深い意見は言いにくい。

しかし明らかに原因のような事象があると、想像も一辺倒になりすぎているように感じる。
実はその行為の方が危険ではないか、というのが今回の内容である。

今までの経験上、深く自死を考え、毎日想像するようなこともあった。
しかし毎回、必ず共通するのは「自分のことが好きで大切に思っているであろう人」を恨むと死にたいのである。

逆に自分のことが嫌いであろう人のこと等、頭の片隅にも無かった。
あったら死ぬ気は失せる。
それは性格的なこともあるだろう。しかし普通に考えたら、敵が憎いより味方が信じられない方が絶望する。
アンチが嫌いより、ファンが嫌いな状態のほうが精神的に辛いはずである。

しかし芸能人の自死報道では、仲間等の「私は味方でした」アピールが始まった。
まるで味方=無罪と言っているようだ。
しかし正直、敵として対峙してくる人よりも、味方として好き勝手言ってくる相手の方が原因として納得できる。

そもそも原因は「いじめや誹謗中傷」という遺書があったとしても、死を選んだ原因は、自分でさえもちゃんと分かっていない可能性も高い。

ネットの普及により、直接のメッセージから独り言まで、匿名の誹謗中傷に対する批判は強まっている。
その進歩は良いことではある。
しかし面と向かって話せる相手からの影響力を、無かったことにし過ぎている。
現実的に考えて、よく知ってる相手の方が原因としてはるかに重い。そもそも自責の念に駆られて、という理由も一般的に想像される。

有名人であれば、好意的な(都合の良い)意見を並べて、すり寄る人間も多かったはずだ。
「誹謗中傷」「指殺人」等見えない相手にスポットを当てる言葉を浸透させることで、周囲に実際に居て、言葉を交わしていたはずの人間を透明化している。

「君のために言っている」という言葉は、いまや味方のふりをして自分の意見を押し付ける言葉とされている。好意なら、ストーカーやDV等何かを強制することが許されていた時代も、とっくに終わっている。
最近流行りの蛙化現象も、好意を持って近付いてくる相手の危険性の現れに思う。
味方の好意としての意見は拒否しにくい。受け入れ感謝する前提が色濃く残っており、問題視する声も多い。悪意より好意の方が厄介なことも多いのは、既に一般常識となっている。

それなのに誹謗中傷という明確な悪意があると、一気に後退して「好意なら良いことしかしない」状態になってしまっている。

また「死ぬと意見が通る」「死ぬといじめや誹謗中傷が認められる」のは、人目につく形で自殺することを、さも社会運動のように思わせてる弊害もある。

いじめやハラスメント報道でも、さも自殺の因果関係を証明する必要があるように言われるが、被害者が無事なら加害が消えるわけではない。
そもそも死を選ばなくても、むしろ傷付いていないとしても、やったことが悪ければ批判はされるべきである。

仮に目の見えない人の私物に悪意のある落書きをすれば、見えないから良いとはならないであろう。
ただ、わざわざ書かれている内容を告げる「味方」がいたとしたら。それで何が起これば、原因の一部ではあると思う。

良し悪しはともかく自死に対して、以前なら近しい人間に原因を探す傾向があった。
今でも批判の少ない芸能人に対しては、身近な人間に原因を探る傾向がある。またコロナ等の影響で、社会情勢への批判に持っていくパターンも目立った。

それなのに誹謗中傷が原因と決めつけるのは、見知らぬ誰かに責任を押し付けているだけではないか。
顔が見えないと思って何を言っても良いと思ってる誹謗中傷犯と、顔の見えない相手だからと言って仮想敵にして良いと思っている著名人。
今まで不動の善と悪だと思ってた対比だが、かなり見え方が変わった。

死を選んだ原因を勝手に誹謗中傷に決めつけ、自分の主張の舞台にすり替える「仲間」とやらが本当に仲間といえるのか。疑問も大きい。
私は味方の大合唱は、
「私は無罪」の大合唱に聞こえてしまう。


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