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命の悪平等が宝塚を不謹慎にする
「来月には終わるはず」とウクライナの人々が信じ続けている頃、戦争は続くと見込んだのが星組『ディミトリ~曙光に散る、紫の花~』だ。
ロシアのウクライナ侵攻が起こった当初、近隣国のジョージア大使に日本メディアが殺到した。
ウクライナへの軍事侵攻ありきで、意味不明なぐらいマイナーな原作が通ったのだ。
戦争が続いていなければピンと来ない内容を決めた宝塚は、千秋楽まで戦争が続けと望んでいたことになる。
エンタメと戦争は切っても切れない。勃発時は宙組『NEVER SAY GOODBYE』、北朝鮮軍の派兵に雪組『愛の不時着』と、偶然重なって演者や客の熱が入ることは多い。
命懸けの来日で話題を集めた「ウクライナ国立バレエ(旧キエフ・バレエ)」も戦争ありきでニュースになった。
しかし事前に分かった上で今起こっている戦争、今失われている命をエンタメ消費するならその国に向き合うべきである。
そして支援を目的とするのがモラルだ。
ウクライナっぽさを匂わせ話題性を狙いつつ、別の国に逃げて支援や責任は負わない。
そんな『ディミトリ』の違和感に呼応するかのように公演中、週刊文春の宝塚記事が連発した。宙組のヘアアイロン記事が出たのもこの公演中だ。
「利益は得たいが支援は嫌」が露呈したからこそ、儲け主義や人命軽視の説得力も増した。
宝塚歌劇団のズレは、命への悪平等さだと感じている。
宝塚にとってウクライナでの戦争は「盛り上がり」なのだ。
安倍元首相銃撃事件も『記憶にございません!』にリアリティが出たイベントでしかない。
命を奪われる事態を、これは酷いがこれは酷くないと分けるなんて出来ない。
酷さに度合いなんてない。
あるのは時間と関係の距離感である。
一周忌までの喪中や忌引きの日数など、時間と関係性がどれくらい近いかによる。
多くの日本国民が存命中を鮮明に思い出せるほど最近の、元首相への襲撃。
今まさに命が失われている戦争。
何より宝塚歌劇団で1年前に起こった転落死。
それらを遠い異国で昔あったとされる、虐殺や処刑と同じスタンスで見ているのが問題なのだ。
安倍晋三っぽい主人公が生まれ変わるコメディと、マリー・アントワネットっぽい主人公が処刑を回避するラノベ。
この違い、センシティブさが分からない。当然配慮できない。
宝塚歌劇団が叩かれた原因の根本はここにあるように思う。
歴史への新解釈や議論は度々起こる。
しかしウクライナ戦争や安倍晋三銃撃事件は、そもそも決着がついていない。
転落死事件は遺族との合意という決着はついても、宝塚歌劇団の改革はまだまだ。結果が見えるのはだいぶ先だろう。新しい捉え方以前に、基盤となる結論がまだなのだ。
宝塚は内容が分からないまま売れるチケットが大半である。心理的安全性を脅かす作品なんて、あってはならない。