【小説】コロナのマスク
九月一日。楽しかった夏休みが終わって、今日から二学期がはじまる。
今年の夏休みは家族で旅行に行ったし、花火大会や夏祭りだって四年振りに開催したし、なんだかすごく充実していた気がする。だからかな、と僕は思う。なんだか去年とか一昨年よりも、この一か月が終わってしまうことが寂しい感じがする。去年は二学期が始まって、学校でみんなに会えるのが楽しみで仕方がなかった。もちろん今年もクラスのみんなに会えるのは嬉しいけれど、授業が始まるのはやっぱりちょっと面倒くさい。なんでか、詳しいことはわからないけれど、今年は始業式だけで下校じゃなくて、初日から授業も給食もあるから、帰るのも遅い。大変だったコロナがひと段落したこのタイミングで、学校もいろいろなことを変えようとしているみたい。朝ごはんを食べながら、まだぼうっとしたままの頭でそんなことを考えていたら、
「ほら、ゆうた。食べ終わったなら早く学校行きなさい。初日から遅刻するよ」とお母さんが声を掛けてきた。
お父さんはちょっと前に仕事に行ってしまったので、この時間はお母さんと僕の二人だけだ。お父さんはいつも決まって、七時半ピッタリに家を出て行く。
お母さんってなんでいつも朝からこんなに元気なんだろう。僕は不思議に思いながら、「ごちそうさまでした」と手を合わせて、席を立った。
カーテンの隙間から差し込む日差しと、窓の向こう側にうつる青い空を見ると、今日もまだまだ暑そうだ。差し込んだ日差しはそのままフローリングの一部を黄色く照らしていて、足を乗せると最初はあったかいと思う、でもすぐに熱さがじりじりと足裏に広がって長くはその場に居られない。九月ってもう秋じゃないの? と思わずグチを言いたくなってしまう、そんな天気と気分だった。
久々のランドセルを背負って、テレビ台に置いてある箱からマスクを一枚取った。
「別にもうマスクしなくたっていいのよ」
僕のことを横目で見ながら、お母さんが口を挟んでくる。「今日も暑いよ。こんなお天気でマスクなんかしたら大変でしょ」
マスクしなくたっていいのよ、が最近のお母さんの口癖だった。七月あたりからずっと。するな、じゃなくて、しなくていい、でもなくて、しなくてもいい、と言う。
外が暑いことなんてとっくに自分でわかっていた僕は、朝のバタバタもあって、少しイラっとしてしまった。
「わかってるよ、うるさいなー」
お母さんと目を合わせないようにしながら、取り出した不織布マスクのワイヤーを折り曲げながら、ぶっきらぼうな口調で言った。
だってしょうがないじゃん。なんだか気恥ずかしくて言葉には出さなかったけれど、本心はこうだった。小学校三年生の時から、どこへ行くにも、何をするにもマスクは絶対で、マスクをするのが当たり前の生活だった。むしろ去年くらいからは、マスクをせずに外にいるほうがなんだか変な感じで、落ち着かなくなっていた。
コロナ自体はもうあんまり怖くない。ワクチンだってちゃんと打ったし、前みたいに感染者数が毎日のニュースになることもなくなった。今の感覚は、なんていうか、マスクをすることが手段じゃなくて目的になったような、そんな感じ。
確かにこの時期にマスクをして過ごすのは暑い。暑いけど、でもマスクをしていないとなんだかムズムズ、そわそわしてきて、他人と目を合わせるのも正直ちょっとしんどい時があった。
顔を見られるのが恥ずかしい、その理由は自分でもよくわからなかった。でも一学期の終業式の日だって暑かったけれど、クラスの半分くらいはマスクをしていたし、珍しいことではないだろうと僕は思っていた。みんなも多分マスクして来るさ。そう心の中でつぶやいて、玄関の鏡の前でマスクを耳に掛けた。いってきます、今日はいつもよりも小さめな声で、そっとドアを開けて家を出た。
6年2組。久しぶりの教室の外観は、一学期と何にも変わっていなくて、安心した。廊下には一学期の終わりに図工で描いた『わたしの大切な風景』の絵がまだ隙間なく飾られている。学期末に持って帰るものが多かったから、夏休みの間も飾っておこう、ということになっていたのだ。僕の絵の右上には銀色のラベルが輝いていて、少しだけ誇らしい気持ちになる。きっとクラスメイトも変わってないんだろうなあ。あ、でもみんな日に焼けて肌は黒くなってるかもな……なんて考えながら、教室のドアを開けた。
「あ、マスクマンがきた!」
教室に入るなり声が響いて、久しぶりだったこともあって、最初は誰の声かよくわからなかった。それでも事情を理解するのに時間はかからなかった。マスクマンは、きっと僕の事。僕を指差しながら周りの男子とケラケラ笑っているのはアクツ君だった。アクツ君のグループ以外のクラスメイトも、大きな声につられて、彼が指差した方向、僕の方を振り返っている。
バッとこちら向いたみんなと目が合って、僕は驚いた。
みんな、マスクをしていないのだ。みんな、夏休みの充実を表すような、日に焼けた顔をあらわにしていて、マスクをしているのは教室の中で僕だけだった。
一か月間の休みなはずが、コロナの前———小学二年生の頃にタイムスリップしたような感じさえする程に、教室の中の様子は変わっていて、僕はしばらく戸惑った。
席についた僕の周りには、すぐに友達が集まって来て、
「ゆうた、お前マスク暑くないの?」
「もうコロナなくなったよ!」
「なんでまだマスク外さないの?」
という調子で、僕をからかう声でいっぱいになった。
クラスの中でいじられキャラの僕は、さっきのアクツ君のことにしろ、周りのみんなにはあまり悪気がないこと、これはイジメとかそういうのじゃないことも知っている。実際、登校するだけでもマスクは暑かったし。それでも、少しはマスクをしている奴もいるだろうと思っていたからか、ちょっぴり悲しい気持ちになった。マスクの内側で、くちびるが勝手に震えた。
なんで、そんなにあっさりマスクを外せるんだろう、みんな恥ずかしくないのかな、僕は思った。でもそれと同時に、僕は一体何を恥ずかしがっているんだろう、とも思った。
コロナが落ち着いたらマスクも外す。暑いから無理してマスクをしない、というクラスメイトのいさぎよさというか、清々しさみたいなものが羨ましくて、逆にいつまでもマスクをしている自分がより一層情けない気がして、気持ち悪いなと思う。
久しぶりに素顔を見たレン君や、一学期からもうマスクを外していた健太。みんな、笑っていた。
それでも、やっぱり自分がマスクを外すのには抵抗があった。むしろ、みんなが僕に注目するようになって、僕の、見られている、という意識は余計に強くなったようだった。
話しかけてくるみんなの声を、笑いながらごまかしていると、少し離れたところで聞いていたアクツ君が、
「あれじゃない? ゆうた、顎のホクロ隠してんじゃね?」
と言った。一瞬、みんなの視線がアクツ君に向かって、それからすぐに、僕の机の周りを、また溢れんばかりの笑い声が包んだ。
「ゆうた、そうなの~?」
「ホクロ見せてよ、ゆうた」
始業前の教室は大いに盛り上がった。確かに僕には、口元の左下のあたりにホクロがある。別にそんなつもりはなかったけれど、アクツ君が言ったその一言で、僕は顔のコンプレックスをマスクで隠している奴、になった。
でも、なんでだろう。別にそんなつもりはなかったけれど、アクツ君の言葉で、僕自身もなんだか核心を突かれたような、妙に納得した気持ちになったのも本当だった。とにかく、僕はどんどんマスクが外せなくなって、どうすればいいのか、もうわからない。
前のドアから、先生が入ってくる。僕の方を見てずっと笑っている健太やレン君、アクツ君は、多分まだ先生が入ってきていることに気付いていない。
「あらあら、初日からみんな元気ねー」先生は笑い声でいっぱいの教室をみて、嬉しそうに教卓に向かった。
すぐにチャイムが鳴って、みんなは自分の席へと足早に戻っていった。
五時間目の国語が終わって、下校の時間になった。
昇降口を出るときに、「はぁ」というため息が無意識にこぼれた。二学期の初日から普通に授業があって疲れたということもあるけれど、ため息の理由は別にあった。
結局、今日一日、僕はマスクを外さずに過ごした。外さなかったのか、外せなかったのかはよくわからない。唯一、給食の時間はマスクを外さないと食べられないから外したけれど、その時間でさえ「チャンスだ!」と言って、僕の周りには始業前の時間みたいに男友達が集まってきて、みんなで僕のことをいじった。そんなにホクロ目立つかな……。給食が終わってからは、何をしていてもずっとそんなことばかりが頭に浮かんできて、その度にマスクを鼻の上までギュッと持ち上げた。
あーあ、嫌だなあ。目の前の小石をつま先で蹴っ飛ばしたら、ちょっとだけ気持ちがすっとした。小石はそのままコツコツと音をたてて転がって、前を歩いていた、多分、レン君の前を過ぎていった。
「あ、ごめん。レン君、だよね? 石蹴ったらそっち飛んじゃった」
声を掛けるのとほとんど同時に、目の前を通り過ぎた小石に気付いたレン君は、僕の方を振り返った。
「おう、ゆうたか。大丈夫、当たってないからセーフ」
こちらを振り返ったレン君を見て僕はびっくりした。教室ではマスクをしていなかったはずのレン君が、マスクをしていたのだ。
あれ、なんで? と僕は思った。ちょっと前まで当たり前だったマスク姿に疑問を持ったこと、むしろ特別な感じがすることが、なんだか変だった。
「なんだよ、レン君だってしてるじゃん」
散々いじったくせに自分だって、とちょっと責めるような気持ちで僕は言った。
レン君は、少しポカンとしてから、「あ、マスクの事か」と気づいた様子で、右手を口元にあてた。少し照れた様子のレン君は、「一緒にかえろうぜ」と言って、僕がとなりに来るのを待ってから、再び前を向いて歩きだした。
昼過ぎの住宅街はまだまだ日差しが強くて、歩いているだけで体の外側からも内側からもあつさを感じるようだ。ランドセルのベルトの肩辺りにかいた汗が蒸れて、少し気持ち悪かった。もちろん、マスクの内側も。
僕たちは、時々あちーとぼやきながら、家の日かげをけんけんぱみたいにジャンプして渡って歩いた。
「ちょっと事情があってさ」
少しして、レン君が不意に言った。
「事情って?」
「うちの母ちゃん、今でもマスクしろしろってうるさくてさ。マスクしないでおれが外に出てるところ見ると、すっごい怒るんだよ。あれ、なんていうの、毒親ってやつ?」
レン君はうつむき加減で、少し恥ずかしそうに言った。自分の親をつい毒親とか、悪者みたいに言いたくなってしまう気持ちは、僕にもわかる。
「そうなんだ」
「それでさ、うちの母ちゃん今週ハタ振り当番なんだよ。だから多分帰りもその辺に立ってるんだ、朝もそこの角曲がったところだったから」
「そうなんだ……」
本当はしたくないマスクを、お母さんに怒られないために、としているレン君は少しつらそうに見えた。そのつらさも僕と同じで、暑いとか息苦しいとかよりも、気を遣うことのつらさなんだろうな、と僕は思った。
しばらくして、旗を持った女の人が立っているのが見えた。きっとあれがレン君のお母さんなんだろう。となりを振り返るとレン君は、ちゃんと鼻の上までおおうように、何度もマスクの位置を直していた。
「レン、おかえりなさい。あら、おともだちも」
「ただいまー」軽く返事をするレン君の後で、こんちにわ、とペコっとお辞儀をした。当たり前なのかもしれないけれど、レン君のお母さんもマスクを着けていた。レン君がしているのとは違う、ちょっと高そうな、縫い目や折り目のないベージュのマスクだった。
「あら、おともだちもちゃんとマスクして偉いわねー。またコロナ流行り始めてるんだから、ちゃんとおうち帰ったら手洗いうがいもしないと駄目よ。おじいちゃん、おばあちゃんも、この辺りたっくさん住んでるんだから」
僕はどう反応すればいいのか、よくわからなくて「はーい」と簡単に返すしかなかった。その間にレン君は早足でお母さんの前を過ぎていく。「まってよ!」僕は念のためにもう一回だけおじぎをして、レン君の背中を追いかけた。
「鍵いつもの場所に置いてあるからねー。開けたらちゃんと閉めるのよ—」
後ろから聞こえるお母さんの声を、レン君は無視して歩いた。
「な、最悪だろ」
さっきよりも少しだけ暗くなったような気がする日かげの中で、レン君は笑いながら言った。
僕は、自分の家との違いに驚いていた。
「レン君のお母さんすごいね。うちの親と違い過ぎてびっくりしたよ。うちのお母さんはもうマスクしてもしなくてもいいよ、自分で考えろって感じだから。むしろ、しなくていい派かな?」
僕がそう言うと、教室にいるときのいつも明るくてみんなを盛り上げるような元気なのとは違う、しぼんだ声で「いいなあ」とレン君はつぶやいた。
いろんな事情があるんだな、僕は本当に新しいことを知ったような気持ちだった。自分のお母さんが、レン君のお母さんみたいだったら、それはそれで大変かも……。
少しの間、僕たちは一言も話さずに歩いた。考え事をしながら下を向いて歩いていたからか、日かげが途切れてもそのことに気付かなかった。突然、日差しが目に入ってくる。あまりの眩しさにうわっと思わず声が出て、でもそれはレン君も同じだったみたいで。僕たちは顔を見合わせて笑った。
次の角を曲がってすぐに、レン君はもうマスクを外して、ズボンのポケットにぐしゃっと押し込みながら言った。
「じゃあ、ゆうたはなんでマスクしてんの? どっちでもいいんでしょ、おれはマジで暑くて無理」
僕はちょっと迷ったけれど、ずっと感じていることについて、レン君に話すことにした。レン君の苦労だって教えてもらったのだから、なんだか今なら言える気がしたのだ。まあ、確かに暑いんだけどさ、と僕は話し始めた。「なんかマスクしてないと変な感じでさ———」
「そっかー」
僕の話を、正直またからかわれるんじゃないかと怖い気持ちはあったけれど、レン君はちゃんと聞いてくれた。教室でのときとは全然違くて、時々相づちを打ったり、うんうんと頷きながら聞いてくれて、それが嬉しかった。
「じゃあ今日のも本当は嫌だったよな、ごめん。おれはいつもの感じだったんだよ」
「うん、それも知ってるよ」
「明日からは気を付けるよ。おれがちゃんとすれば、みんなもやめると思うから」
「ありがと、レン君」
マスクの話はそこで終わって、その後はまた違う話をした。初日から五時間授業なのがだるすぎた事、夏祭りで健太が一組の女子と二人でまわっているのを目撃したこと、クラスの男子は全員見ているアニメについて。
しばらく話しながら歩いて、僕たちはお互いの帰り道についた。ずっと笑っていたので、一人になった僕は「ふう」と一息ついた。
家の前の路地に入ると、細い道を一筋の風が通った。暑くない! とまでは言えないけれど、汗でじめッとした体を乾かす風をうけて、久しぶりに暑いじゃなくて、暖かい、という言葉が僕の頭に浮かんだ。
「ただいまー」
朝家を出るときの事をすっかり忘れていた僕は、普段通りでドアを開けて言った。
リビングから、「おかえりー」というお母さんの声が聞こえる。
「手洗ってきなさいよ」
やっぱりうちのお母さんも同じことを言うけれど、レン君のお母さんのそれとはちょっと違う感じもする。「はーい」ランドセルを下ろして、手洗い場に行く。手を洗って戻ってくると、
「ゆうた、後ででいいから牛乳買ってきてくれない? 今日シチューつくろうと思ってたんだけど買ってくるの忘れちゃったのよ」
とお母さんがおつかいを頼んだ。
「シチュー? やった、いいよ」
お母さんも、朝の事なんてもう何にも気にしていない様子だった。それも大体わかっていたけれど、やっぱりちょっと安心して、そのまま牛乳のお金を受け取った。お母さんはいつだってそうだったし、今朝のことに関しては、僕が勝手にイラっとしていただけでお母さんは最初から何とも思っていなかったのかもしれないけれど。家に帰って、いつもならそのまま捨ててしまうマスクも、後で使おうと、いったんポケットに入れておくことにした。
少し時間がたって、日が沈み始めた頃に、僕は家の近くのスーパーへと向かった。この時間になると日中の日差しも少し収まって、ちょっとだけだけれど秋っぽさを感じる。
これ持ってきな、と渡されたエコバックを片手に、慣れた店内をずんずんと進んでいく。息を吸うと、マスクの中にスーパーの冷たい空気が入ってきて気持ちがいい。
ふと、前にいた同じ年ごろの女の子に目がとまった。
女の子もマスクをしていたけれど、なんだか見覚えのある立ち姿。
よく見てみると、彼女は、クラスメイトの夏奈ちゃんだった。
「夏奈ちゃんもおつかい?」勇気を出して、僕は声を掛けた。
「あ、ゆうた君」
最初、少しびっくりした様子の夏奈ちゃんは、すぐにニコッと笑って「そうなの」と言った。みんなに好かれている彼女は、マスク越しでも笑っているのがはっきりとわかるくらい、笑顔が素敵だ。ついでに今日の教室で、マスクをしていない姿も見ていたから、その時の口元やえくぼも簡単に浮かんできた。
でも、続く言葉がなかった僕たちには、ちょっとだけ気まずい空気が流れた。売り場の前で無言の二人。話しかけない方が良かったかな、なんて思っていると、
「今日、ゆうた君すてきだった」と夏奈ちゃんが言った。
僕はびっくりして、「えっ?」と思わず声が出た。
「今日、皆マスク取ってるのにゆうたくんはずっとしてたじゃない? あれ、自分持ってるって感じでかっこよかったよ」
「え、そうかな……」
かっこいい、なんて予想もしていなかった言葉をかけられて、僕の口元はすごくゆるんでいたかもしれない。こんな表情を隠すために、マスクしててよかったぁ、と僕は思った。
本当はかっこわるいとさえ思っていた僕のコロナのマスクだった。夏奈ちゃんの言葉は、すごく嬉しかった。
それから、マスクについて話題を見つけた僕らの会話は少しはずんだ。どうやら夏奈ちゃんも、本当は教室でマスクをしたかったらしい。「うち、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでて。もし、もしね。わたしがコロナうつしちゃったら、おじいちゃん他の病気も持ってるから、死んじゃうかもしれないんだって。お母さんたちもそのことをすごい気にしてて、別に前みたいにきびしいわけじゃないんだけど、わたしも家族に迷惑かけたくないなって」
夏奈ちゃんの目は、話しながら次第に下を向いていった。
「でも、教室に入ったら誰もマスクしてなくて。わたしもなんだか怖くなっちゃってマスク外しちゃったの。なんか意識カジョウな子みたいに見られるのかなって」
夏奈ちゃんはマスクしたいけれど、できなかったんだ、と僕は思った。外したくても、外せなかった僕とは反対だ。反対だけれど、なんだか似ている。
「そうだったんだ」
「そう、だからゆうた君すごいなって思った、わたしなんかよりずっと……」
夏奈ちゃんは照れた様子で、下を向いたままだ。スーパーの冷蔵庫の前で寒いのかな、両方の手の平で反対側の腕をさすっている。なんて声を掛けたらいいんだろう、レン君のときみたいに僕がマスクをしていた理由も言うべきなのかな、と迷っていたら、「冷えてきたからわたし、そろそろ行くね。また明日」と夏奈ちゃんが言って後ろを振り返った。
「あ、うん。また明日……」
夏奈ちゃんの背中が、少しずつ小さくなる。
これでさよならでいいのかな。最後の夏奈ちゃんの沈んだ表情が、頭から消えない。
だから、かける言葉は未完成だったけれど、「夏奈ちゃん!」と僕は声を掛けた。
「えっと……。明日はマスクしてきなよ! 本当はまだマスクしたいんでしょ? 僕もマスクしていくからさ、約束ね!」
なんか恥ずかしいことを言ったかもしれない、と僕は思った。でも、さっきのでバイバイするよりはよかったかな、と少しスッキリした気分だった。
自分の話はしなかった。少し遠くの夏奈ちゃんには、もう長く話す時間はなかったのだ。
夏奈ちゃんはもう一度僕の方を振り向いて、
「わかった、約束!」
と笑って言った。やっぱり、マスク越しでも彼女の表情ははっきりとわかる。
みんな、それぞれの事情があった。レン君にも、夏奈ちゃんにも、きっとほかのクラスメイトにもそれはあるんだろう。そう思ったら、僕の心は少し軽くなるようだった。みんな違うけれど、みんなどこか似ていて、自分だけ無理しなくていいんだ、と僕は思った。
僕は、明日もマスクをして学校に行こう。
牛乳の売り場へ、新しい明日が待つ明日へ、僕は前へと歩き出す。