バトー
オールタイムベストアニメーションムービー。当時映画館で観て、冒頭の裏路地のシーンだけでその映像とサウンドの迫力と緊張感に度肝を抜かれたことを今も思い出す。
人格、意識、ゴーストと身体は不可分なものであり、たとえばある人の脳だけを取り出して別人の身体に移植できたとして、その人の意識が前と同じに保たれることはあり得ない。意識は身体からもたらされるあらゆる感覚、刺激、情報から組成されるものであり、脳はまさしくその情報の中央処理装置ではあるけれど、ゴーストは生物の脳を含む身体全体で存在していて、たとえ脳だけ取り出しても身体が失われればその人の意識の連続性も失われる、つまり別の人間に変わっていくのである。攻殻機動隊の一番のフィクション性はそのところであり、脳はゴーストのポータブルデバイスではないし、情報のみの存在となったあとバトーのもとに再び現れた守護天使はバトーの記憶にある草薙素子とはやはり別人なのである。
どこにでも存在するというのはどこにも存在していないというのと同じ。永遠の命が生の否定と同じであるように。広大なネット空間に遍在するという草薙はだからやはりもうどこにも存在していないことをバトーは知る。その永遠の空疎さを抱えて、しかし、孤独と空疎さの感覚はゴーストを持つすべての人の友人でもあり、犬を抱えるバトーと娘を抱き上げるトグサのあいだに実際それほどの違いはないのかもしれない。バトーとトグサ、犬と娘、4つのゴーストを、娘へのおみやげである人形の無機質な目が見つめる。それを見つめ返すバトーの眼もまた無機質な機械の眼であったことを、私たちはそこで初めて思い出す。
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