ジョイランド
ハイダルが、たとえば父に意見していまの生活を、つまり妻のムムターズが外で働き自分が主夫として家の仕事をするといういま暮らしを続けることを主張していたらどうなっていただろうかと考える。やはりその場合も、ラナ家は、つまりそれまでの"伝統的"な家としてのすがたは早晩崩壊しただろうと思う。
社会にまだどれほど伝統的価値観が幅を利かせていたとしても、人びとはもう皆スマートフォンを持ち、インターネットにアクセスし、別の社会、別の価値観、別の生き方をする人びとがいることを知っている。知ることは人に不可逆の変化をもたらし、それは本人にも、誰にも、止めることはできない。
個人の自立、主体性、対等な男女、別の性。そういう価値観を知り、そのように生きようとしている人から、その自由を奪うことはもう不可能であることを映画は示している。ダンサーのビバは正面から社会に立ち向かい、ムムターズは悲痛な方法でその束縛から逃れたけれど、劇中の男たちがそのことを理解していたかは怪しく、それが腹立たしくも悲しく、しかし、自分自身がハイダルなら、はたしてビバやムムターズの気持ちに本当に気づけただろうかとも考えさせられる。
ハイダルを意志薄弱な男と批判するのは簡単だけれど、他者を気遣うこと、他者の気持ちを汲み、そのひと個人を尊重することは、常に細心の注意と努力で自身の心と言動を自覚的に磨かなければできないことで、言うよりもだいぶ難しい。
あの家で、あの社会で、しかし専業主夫であることを一度は選択するハイダルは勇敢な男だ。婚約相手のムムターズの家をこっそり訪ねて「家同士で決めた結婚だが本当に大丈夫か?」と聞く彼の優しさに、ムムターズは惹かれる。勇気も優しさも持ち合わせたいい男であったのに、”伝統的価値観"の前にはそれらは無価値だった。人間としての良い性質を無価値化してしまう家父長制とは、じゃあいったいなんのためのシステムなんだろうと考えるほど、私たち男性の粗野で身勝手な支配欲を普遍的な社会の理であるかのように化粧したものに過ぎないことが明確に感ぜられてきて、男性に属している身としていたたまれない。男の身勝手さが社会システムから排除されなければいけないと切に思う。それは私たち男性自身をも束縛しているから。そのことを映画は暴いている。
あらゆる束縛から開放された自由の地、ジョイランドであるところの、遊園地と、カラチの海岸が、いつまでも印象に残る。
パキスタンという、今も昔もほとんど知られていない国の、現代の街と人びとの暮らしの一端が垣間見られるという点でもとても面白い。隣国のインドとの雰囲気の違いも感じられる。もう少し、理知的だ。それは映画のせいかもしれない。