偶然の遊びの重要性について、
こんにちは。本日も素敵な一日になりますように願っております
ロジェ・カイヨワ著の『遊びと人間』について独自の解説を記述しておりますが、今回は補論の”偶然の遊びの重要性”に関して述べさせていただきたいと存じます。
アレアがアゴンの補完的役割を果たしていることを以前の記事で何度も述べてきました。実際に運命の恣意的決定=『偶然』は、規則をもった『競争』にとって必要な補足である旨を今回は説明させて頂きます。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ著/多田道太郎・塚崎幹夫訳 講談社学芸文庫 第39刷 2019 (236-261頁)によれば、
労働を基盤とする産業型文明つまり経済活動重視の社会においても、偶然の遊びに対する愛好心は根強く残っております。偶然の遊びは労働の価値とは正反対の金儲けの手段であり、「労することなく瞬時に、一攫千金や栄光を手にできる千載一遇のチャンスの魅力を有しています」。
富くじ、カジノ、競馬、サッカーの試合の賭けなどの偶然の遊びは、経済的社会的機能を持っており、国家やスポーツ振興団体の大きな収入源になっており、これらの収入から公共事業の予算が捻出されたり、スポーツ・芸術の促進に役立てられております。更には、偶然の遊びの法則の研究が確率論、位相幾何学、戦略ゲーム理論のような数学的知識体系の発展に大きく寄与してきたことも否定できません。
日常生活において労働に全エネルギーを吸収されることのない比較的余暇のある社会においては、偶然の遊びが予想外の文化的重要性を獲得していることがしばしば見受けれます。その影響は芸術、倫理、経済、学問にまで及んでいます。賭け事などの偶然の遊びは、労働の報酬として受け取る生活の糧とは違い、偶然から得られる幸運であるため、非道徳的で非社会的行為とみなされがちで後ろめたさを感じながらも、民族間・国家間において様々な形態で日常生活の中に浸透しており、人々はその幸運をつかむ機会に魅了されてきました。
才能、努力、公平性を重んじる競争的経済制度においては、幸運は忌むべき存在ですが、偶然的幸福は文明的に発達した社会の中で規則に副った経済活動においては、貧富の格差を補完してくれる存在になりえます。規則に基づく競争社会では、財力や能力が優れている勝者が明確に確認することが出来ますが、他方敗者は能力とは無縁の恩恵にあやかるチャンスこそが、一縷の望みを与えてくれるからです。敗者は公明正大な戦いに敗れ、不正を言い立てる釈明も出来ず、自身の無能を咎めるしかないのであれば、可能性が無限に小さくても運命の気紛れな力の偶然という幸運の女神の微笑みに、自身の受けた屈辱に釣り合う償いをつけてくれるかもしれないことを期待できるのであれば、偶然こそが唯一の希望となり得ます。この力は不可解で盲目で手に負えないものであるが、ありがたいことに規律という正義は無視してくれるため、敗者にとっては一種の精神的救済であり、人生の一発逆転が望めるメシアになります。