『稲盛和夫一日一言』 6月16日
こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 6月16日(日)は、「哲学とともに生きる」です。
ポイント:原理原則に基づいた哲学をしっかりと定め、それに沿って生きることは、物事を成功へと導き、人生に大きな実りをもたらす。
2022年発刊の『経営のこころ 会社を伸ばすリーダーシップ』(稲盛和夫述 稲盛ライブラリー編 PHP研究所)「自らの哲学、理念を高め続ける」の項で、哲学、理念に基づく座標軸で判断することの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。
大きく分けると、人間は三つの判断の基準を持っているのではないかと思います。
一番目は本能心に準拠した判断です。本能とは、人間が自らの肉体を維持し、守っていくために与えられたものですから、これは利己的、主観的な座標軸であり、利害得失にベースを置いた判断となります。
人間はついつい儲け話に目がくらんだりします。それは本能心という利己的で主観的な心の座標軸で判断するからです。そこには、地位・名誉欲といったものも関係しています。
二番目に、理性で判断する場合があります。これは確かに客観的です。先ほどの主観的で利己的なものとは違い、相対的でもあります。
この場合、物事を詳しく分析します。何かを決断、判断しなくてはならないときに、状況をつぶさに分析し、それに対してさまざまな推理、推論を加えていく。しかしいかに分析をうまくやり、推理、推論してみても、それだけでは決断、判断には至りません。
こうした状況対応型、状況分析型のタイプの人は、分析に時間を費やしてしまって、ただ右往左往するだけです。
私は社員から報告を聞いたとき、「それで、君はどうしたいんだ」と聞き返します。つまり、「状況はよく分かったけれども、それで君はどうしたいんだ」と聞くと、「いや、もうたいへん難しい状況なんです」としか返ってきません。
私はそういう人を「根なし草」とも言っています。根なし草というのは、魂をどこかに忘れてきた人という意味です。理性的で、頭がよく、素晴らしい知性の持ち主ではありますが、自分の魂をどこかに置き忘れてきた人です。状況分析も推理、推論も結構ですが、それよりも自分の魂を掘り起こし、自分の魂がどうありたいと思っているのかをまず聞かなければなりません。
三番目は、私は原理原則型と言っていますが、魂から発する信念、また魂に基づいて発現する意志に基準を置くものです。判断する際、そのときの状況がどうかということを参考にはしますが、状況がどうであれ、常に自分の魂に接しながら、人間として何が正しいのか、世の中の摂理に合っているか、もっと大きくいえば、宇宙の摂理に合致しているかどうかに基準を求めるのです。
本能心、つまり利己的、主観的な判断ではなく、自分と自分をはるかに超えた魂の言葉に耳を傾ける。自分にとって都合がいいかどうかではなく、人間として何が正しいかということに基準を求めようとする。言葉を換えると、これは「利他」です。他を利するという心であり、愛であり、仏教でいう慈悲の心です。そうしたものに根ざして判断をする。
企業経営において、私はいつも「企業理念」「企業哲学」「経営哲学」といったものが非常に大事であるとお話ししています。
だとすると、経営者が持つ企業の中の見えざる部分である「哲学」「理念」を、よりレベルの高いものにしていかなければなりません。それには、常に自分自身を高めていく、人間修養をすることが必要なのです。(要約)
今日の一言には、「哲学に準じて生きるということは、己を律し、縛っていくということであり、むしろ苦しみを伴うことも多い。ときには損をすることもある苦難の道を行くことでもある。ただ長い目で見れば、確固たる哲学に基づいて起こした行動は、決して損にはならないものだ」とあります。
損得を基準に判断するのではなく、状況分析、推理・推論を基準に判断するのでもなく、「人間として何が正しいか」ということに基準を求めて判断していこうとする。
ここでは経営者が持つべき哲学、理念について言及されていますが、それは誰にとっても当てはまるのではないでしょうか。
自らの持つ座標軸で判断してきたことの集積・累積が現在の結果であるとするならば、どのような判断基準を持って生きていくべきかは自明です。
「自分の魂はどうありたいと思っているのか、自問自答すること」
それが、今日のタイトル『哲学とともに生きる』ということなのではないでしょうか。