私はアセクシャルかパンセクシャルか? ‐第一章‐
前回でもお話した通り、私は自らの性的指向について理解しきれていないところが多くある。
今回は、現時点で私のセクシュアリティについて分かっていることをお話していきたいと思う。自分の中の感情をを偽ることなく曝け出すつもりなので、人間として見苦しい部分もあるかもあるかもしれないのでご了承ください。
恋愛的指向と性的指向
皆さんは恋愛的指向と性的指向の区別について考えたことがあるだろうか?あるいは、好きになる性別と性的な触れ合いをしたいと思う性別が一致しているだろうか?
私はつい最近まで恋愛的指向はアロマンティック(他人に恋愛感情を持たない)、性的指向もアセクシャル(他人に性的に惹かれない)であると考えてきた。しかし、アロマンティック・アセクシャルの定義が曖昧であるという特性もあるのかもしれないが、どうも自分が当事者であるかどうかが分からなくなってきてしまったのだ。
もちろん「100%このセクシュアリティだ!」と断言できる人ばかりではないし、別に自分のセクシュアリティを確定する必要はないと思う。でも自分の中にある感情が相反しすぎて、他者を傷つけてしまうのではないかと自分のことが怖くなる。
現時点で分かっている私のセクシュアリティについて
前回のnoteでもお話ししたが、私の性自認はXジェンダーでありノンバイナリーだ。恋愛的指向については、まだ迷うが今のところアロマンティックが近いと思っている。
問題なのが、性的指向だ。私は、自身の性的指向をアセクシャル(無性愛者)とパンセクシャル(全性愛者)で迷っているのだ。
恋愛的指向
私はこれまで人を恋愛的に「好き」になったことがない。というか、恋愛的に「好き」という感情が分からない。
アセクシャルだと自覚するまでは好きな人は作るものだと思っていた。
みんな頑張って好きな人を作っているのだと思っていた。
これまでの恋愛経験は少ない方だとは思うが、少ないながらもお付き合いをしたこともある。でも、その相手に対して抱いていた感情は世にいう「好き」なのか、未だに分からない。
かといって、アセクシャルの当事者でよく言われる友達と恋人の違いが分からない(友達かと思っていたのに相手の恋愛感情に如実に気づくことができない)ということはないし、むしろ恋愛的な関係を求めていた時期もあった。
気分によって恋人がほしくなる時期がくるという感じかもしれない。
ただ人と違う風に関わってみたいだけかもという感じもするので、世間でいう「恋人」を求めているのとは少し違うのかもしれない。
セフレのような感情に近いのかなと思う。まあセフレはいたことないのでわかりませんけど。
恋人がほしくなる時期になって意識しながら人と関わっているときは演技?のような感じになっている気がする。
かといって自分と全く違う人格というわけでもない。
でも確実に自分の中の違うモードになっていて、本当に「好き」というわけではないので、世間でいう「好き」であれば、勇気が出なくてできないような行動も大胆に行動できてしまう。
でも別に過去の恋愛経験がまったく楽しくなかったかというとそうでもなくて、私は今考えると相手にではなく相手としている行為に楽しみを見出していたのかもしれない。
というか、恋人を「作る」という言葉に違和感を感じる。恣意的に恋人を作ろうとするのは相手を自分を飾るための存在とみなしているように感じて、相手に対して失礼なのではないかと感じてしまう。
私が純粋すぎるのだろうか?笑
好きな人って、作るんじゃなくて自然にできるものだと聞いているんですけど?
このような意識が恋愛に対して嫌悪感を抱く部分の一つの要因なのかもしれない。
恋愛は脳のバグだと思っている。恋愛は傍から見ると時に無謀な行為をしたり、時に傷つけあうものだ。恋愛というものは、冷静さを奪う。
こうやって自分に改めて向き合ってみると、恋愛的指向もかなり自分の中で整理がついていないことが分かってきた。
性的指向
先ほども書いた通り、私は自身の性的指向をアセクシャルとパンセクシャルで迷っている。
まずアセクシャルの定義としては、他者に対して性的な欲求を抱かないセクシュアリティのことだが、その中でも性的な欲求自体を抱くタイプと抱かないタイプに分けられると思っている。
つまり、性的な欲求は抱くがそれが他者に向けられることはない人と、そもそも性的な欲求を抱かない人がいる、ということだ。性的な欲求を抱かないというか、性的なことに対して嫌悪感を抱くという人もいるだろう。
私はアセクシャルの中でも性的な欲求を抱くがそれを他者に向けないタイプだと自認していた。また、性的なことに対して嫌悪感を抱く自分もいるということを感じていた。
しかし、これにも「ゆらぎ」が生じている。
私の性欲は時期によって強弱があり、性欲が高まっているときにはセルフプレジャーも行うことがある。でも、途中で「何でこんなことやってるんだろう…」と冷めてしまうことがよくある。
それは自身のしている行為に対してもだし、人間はこんな単純なことで振り回されているのだと虚しく思う。おそらくこのような意識から性的なことに対して嫌悪感を感じ、そんな自分も性欲に支配されていることから自己嫌悪に陥る。
もちろん性欲があることや、他人に迷惑をかけずに欲を発散することは悪いことではないと頭では分かっている。頭では。
実際に相手を伴うセックスについては、セルフプレジャーと違って相手に影響を与えるので迷惑なのではないかと考える。
セックスには大きな責任が伴う。
その責任を負うくらいならセックスはしなくてもいいという考え方だ。
「性的な快楽」という観点でも興味がないわけではないが、必ず必要だとも思っていない。
そして、相手を伴ったセックスというのは、自らをさらけ出すことをどうしても必要とするが、それが苦手ということも影響しているのかもしれない。
そもそも裸が苦手だ。銭湯とかもできれば入りたくない。
でも、自分のことがどうでもよくなってしまう時期があって、そう思う時期と性欲の高まりがリンクしているのではないかと考える。
というか性欲の高まりはあるものの私の中ゴールは必ずしも「セックス」ではないと思っている。どこからどこまでを「セックス」と定義するのかにもよるが、例えばオーガズムを感じずとも私は非常に満たされた気分になると思う。
性的な接触を求めている時期に相手を想像してみると、別に特定の性別としか関係を結ぶことができないというわけではない気がする。むしろ心が通じ合えばどんな性別でも関係ないという思いがある。
性的快楽に興味はあるものの、責任などを考えて冷静に相手のあるセックスをすることをしない選択をベースとしているが、自分のことがどうでもよくなってしまう時期がくると、性的な接触を求めてしまう。
でも相手を伴ってしまうと、性的なつながりを直接的に求めてくる人は気持ち悪いと感じてしまうし、恋愛感情をもとに自分に近づいてくる人に対しては、相手の気持ちを利用しているような気がしてきて申し訳なく思い、自分の不純さを責める。
わたしの性的指向についてはこんなところだろうか。
まとめ
私の心の中を思うがまま書いてしまったので、ぐちゃぐちゃと長い文章になってしまった。まだまだ分からないことも多いが、改めて文章にすることによって自分にとって新たな発見もあった。
次回は幼少期からの恋愛・性について時系列で振り返り、自らを形成する要因となった部分について深堀りしていきたいと思う。
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